大塩平八郎が救民の旗を掲げて挙兵した本当の目的

大塩平八郎は、大阪町奉行与力を務め、
身内の不正を摘発したり、生臭坊主を摘発したり
腐敗役人を糾弾するなど正義感の強い人物だった
 
1800年代中盤、200寝に帖続く江戸幕府は、徐々に腐敗し、
役人は賄賂を受け取るのが当たり前、
一方庶民には、贅沢を禁止する倹約令を発令
そして、天保の飢饉が起こり、
餓死してしまう庶民が後を絶たない状態
 
民を救うため、将軍へ送る米を分け与えるように嘆願したが、
一切 取り合ってもらえず、それどころか役人の贅沢が止まらない
救済処置をとらない幕府に対し、このままでは日本が滅んでしまう、
そう考えた大塩平八郎は、ある計画を立てる
それが大阪奉行所の襲撃計画
大阪奉行所を襲い、保管されてあった米を強奪する
1837年2月19日、大塩平八郎の乱
大塩平八郎は、「救民」の旗を掲げ挙兵し、
大坂の1/5が焼失する戦いとなったが、わずか半日で鎮圧された
その40日後、大塩平八郎は自害し、反乱は終結した
 
大塩は死ぬことも、負けることも覚悟していた
挙兵した本当の目的とは?
幕府の腐敗を世に知らしめることだったのかもしれない
 
武士階級に属する人が明確に幕府に
反乱の意思を示したのは、大塩平八郎が最初
 
大塩平八郎の乱は、西郷隆盛などに深い感銘を与えたと言われている
 
この事件の16年後、1853年7月8日 浦賀に黒船が来航する

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