Category Archives: 人物

初代:京介、二代目:春彦、三代目:秀穂
 
●初代:金田一京助は、日本語ではなくアイヌ語の研究者だった
1882年、岩手県の裕福な家に生まれる
家の蔵には、たくさんの本があり、幼い頃から本に親しんできた
文学好きな少年に成長
1904年、東京帝国大学(現 東京大学)の文学部に入学
同級生たちが研究する言語を決定する中、
京助は先生に言われるままアイヌ語を研究することに
アイヌ語は喋ることでしか伝承されず、文献などもほとんど存在しない
1907年、言語研究のため初めて樺太を訪れる
当時は辞書も通訳もない状態で相当 悩んだ
京助は、まず簡単な図形を書き、子供に見せると「ヘマタ?」と言われた
「ヘマタ」とは「これ何?」の意味だと知り、
「ヘマタ」で次々とアイヌ語を記録していった
京助は25年かけ、様々なアイヌ語を調べ上げた
1931年、研究成果を2冊の本にまとめ、アイヌ叙事詩ユーカラの研究を刊行した
しかしアイヌ研究だけでは生活ができず、食い扶持に困っていた京助に
渋沢栄一や柳田國夫らから辞書編纂の仕事を与えてもらった
1943年、京助が編纂した明解国語辞典が刊行
その後、京助のもとに国語辞典の編纂の仕事が舞い込み、
結果64冊も金田一京助 編纂の辞書が誕生した
しかし そのほとんどが京助は携わらず、名前貸しだった
 
●二代目:金田一春彦は、学者ではなく作曲家 志望だった
1913年、金田一京助の長男として東京都文京区に生まれる
春彦が物心つくころには、父は日本を代表する学者となっていた
親の七光りを嫌った春彦は、父とは違う作曲家の道を志した
高校の寮歌を作曲し応募、二度も採用された
しかし先生が弾くピアノの実力の差に愕然、早々に作曲家の道を諦めた
言語学への道を進むことを父に伝えると、
「これを読んでみなさい」とアクセントと方言に関する本を手渡された
京介は息子に跡を継がせたがっていた
そんなときに音楽と言葉を結び付ける研究が生まれた
それを春彦に見せた
春彦は、これなら父に勝てると思った
その後、春彦はアクセントの研究で全国を飛び回り、地方の方言を調査
音楽をしていたことが細かな方言のイントネーションを聞き分け、
新時代の言語学を切り開いていく
そして1949年、「アクセント辞典」の編纂に携わった
1957年、著書「日本語」が65万部のベストセラー
 
1963年3月に発生した吉展ちゃん誘拐殺人事件
犯人は捕まらず、残された手掛かりは、犯人の声だけだった
捜査は難航し、犯人の肉声が繰り返しテレビで放送された
すると「これ茨木か、栃木か、福島の人間だよ」
それを聞いた妻が放送局に電話
すると数日後、正式に警察から捜査協力要請が入る
春彦の発言をもとに警察が動き、約2年後に犯人が逮捕された
春彦は、雑誌やテレビなど様々な分野で人気者に
その後、辞書作りに取り組むように
 
●金田一秀穂は大学卒業後、3年間もニートだった
1953年、春彦の次男として生まれた
上智大学文学部心理学科を卒業後、
秀穂は就職もせず、ニート生活を3年間も続けた
その後、春彦の斡旋で、海外で日本語を教える仕事に就いた
改めて日本語の説明できない難しさに興味を持ち、言語学の道へ
 
●金田一耕助とのつながり
作家:横溝正史 原作の「犬神家の一族」
「八つ墓村」などに登場する私立探偵:金田一耕助
この名前、横溝正史が主人公の名前をどうしようか迷っている時、
たまたま近所に住んでいた金田一京助の弟の家の前を通りかかり、
その表札を見たことで名前を拝借したという

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●織田信長は「占いに根拠なし」を証明しようとした
 
古文書「朝野雑載」に信長が出した御触れが書かれている
“信長と同年同月同日同時に生まれしものを尋ね出し給う”
自分と同じ年月日、時間に生まれた男を探し出せ
 
当時の占いは、生年月日が同じであれば同じような運命を辿るが基本
 
その男が、どういう人生を辿ったのか?と
自分の人生を比較すれば占いに根拠がないことを証明できると考えた
 
そして1人の男が見つかる、その男は、極貧だった
生年月日による占いは、根拠がないと確信した
その極貧男は、「上様と私に差はありません。天下人でも貧しくとも明日のことが分からないのは みな同じなのです」と話したという

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●シェイクスピアのゴーストライター疑惑
シェイクスピア作品の特徴は、
1、庶民に知りえなかった貴族や宮廷内部のリアルな様子を描写
2、他の国に取材や旅行に行けなかった時代なのに
海外の暮らしや情景を詳しく描いている
シェイクスピア
このシェイクスピアの肖像画とされる人物は、
ロンドンから離れた片田舎で育った庶民とされている
さらに海外に行った経験はなく貴族の暮らしも海外の暮らしも知り得なかった
その上、これだけ有名な劇作家であったにも関わらず、
現在 シェイクスピア直筆の原稿が残っていない
 
●シェイクスピアの作品は、全てイギリスの外交官:ヘンリー・ネヴィルが書いていた
この説を唱えているのは、
元ポーツマス大学の講師:ブレンダ・ジェームス
ネヴィルは、シェイクスピアと同時代に生き、
貴族出身の外交官として活躍した人物
 
1、ネヴィルのいとこは、シェイクスピアの故郷
ストラットフォード・アポン・エイヴォンに土地を持っていた
シェイクスピアの家族は、その土地を借りていた
 
2、海外経験の違い
シェイクスピア全37作の内、およそ半数以上が
イギリス以外のヨーロッパ各国が登場する
どの国のシーンも詳細な描写がされており、
シェイクスピアは各国の細かい文化や
生活の違いを熟知していなければならない
ネヴィルは、名門オックスフォード大学に
在学中、ヨーロッパ各地を訪問している
後に外交官となり、フランスに駐在していた
ネヴィルが訪れた国とシェイクスピア作品の舞台が完全に一致する
 
3、シェイクスピア作品の転機との一致
1590年代は明るく陽気な喜劇が多かったシェイクスピア作品だったが、
1601年を境に作風は一変、ハムレットをはじめ、
オセロー、マクベス、リア王の4大悲劇を発表、
暗く深刻な作風が増えた
作風がガラリと変わった1601年、ネヴィルにも転機が訪れていた
1601年、ネヴィルはクーデターに
関わったとして逮捕、ロンドン塔に幽閉された
仲間たちが処刑され、失意の中 辛い日々を送っていた
ネヴィルは、いとこを通じて役者をしていたシェイクスピアに
自分の代わりに作品を発表してもらおうと依頼したのでは…

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●ベートーヴェンはナポレオンのスパイだった
それまでの音楽家は、教会か宮廷の業者でしかなかった
ナポレオンを尊敬していたベートーヴェンは、
宮廷に入るための礼装であるカツラを外し、
自分は民衆のために音楽を作ると音楽家が
アーティストとして確立する革命を起こした
 
1770年、ドイツのボンに生まれる
21歳でオーストリアのウィーンへ
このウィーンに住んでいた頃に、
ベートーヴェンが不審な行動をとっていた証拠が出てきた
・40回にも及ぶ謎の引っ越し
・謎のラブレター
研究者の間では、2つの不可解な点が指摘されている
宛名がなく誰に出そうとしたのか不明
エステルハージという貴族の名前が書かれた一文
当時、ヨーロッパはフランス革命の直後、
市民の革命運動を抑えるため手紙は全て検閲対象だった
ラブレターの中に隠しメッセージを入れることは、
密かに情報を伝えるための有効な方法であった
エステルハージとは、
ナポレオンと激しく対立していた有力な貴族だった
ベートーヴェンは、ナポレオン側の
スパイとして活動していたと考えられている
しかしナポレオンが皇帝になった後、
ベートーヴェンは献呈することを取り消した
 
●民謡を編曲しまくってお金を稼いでいた
レコードもCDもないこの時代、
音楽家たちの収入を支えていたのは、作曲した楽譜の売上
オーケストラ曲は、苦労の割に需要が少ないため金にならない
一方、民謡は、庶民に人気があり、その楽譜が売れる
さらに一から作るより、編曲の方が容易い
稼ぎの良いアルバイトとして民謡を編曲しまくっていた
そしてベートーヴェンは生涯に170曲以上の民謡を編曲した

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旧姓:クララ・ヴィーク、夫は、大作曲家のシューマン
ヨーロッパ中で大人気だったピアニスト
同じ時代に生きていた数々の音楽家、作曲家を虜にした
 
1819年にピアノ教師フリードリヒ・ヴィークの次女として生まれた
9歳で演奏会デビューし、11歳で後に巨匠となるショパンが演奏を依頼
12歳の時には、ゲーテの前でピアノを演奏
18歳でウィーンの皇帝の前で演奏
当時の大作曲家たちは、こぞってクララに作品を捧げるように
その中には、メンデルスゾーンの「春の歌」、
リストの「ラ・カンパネラ」など名曲ばかり
ブラームスもクララに作曲の相談をするように
モテモテのクララは、その中から夫としてシューマンを選んだ
結婚すると生涯、その愛をシューマンに注いだ
シューマンが44歳のときに精神の病に倒れると
ヨーロッパ中で演奏会を開き、家計を支えた
しかしクララが36歳のときにシューマンが死去
その後、クララは喪服を着続けた

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音楽史上最もイケメンでモテたピアニスト:フランツ・リスト
当時のピアノは、オーケストラの一部、伴奏の楽器でしかなかった
リサイタルを大ホールで開いたのもリストが初
リストの横顔が彫られたステッキ、チョコレート、
ワインのボトルなどのグッズをホールで販売したのもリストが初
楽器のプレイヤー、ピアニストという言葉もリストによって作られた
 
日本初の総理大臣、伊藤博文もリストの演奏に感動した1人
「リストを日本に連れて帰りたい」と要望し、
周りが難色を示すと「四国をあげちゃえば」とまで言ったという
 
●リストは自分をカッコよく見せるため世界一難しいと言われる何曲を作った
手をクロスして演奏する左右クロス演奏
高い方の音域は右手で弾くのが普通だが、
リストは、左手で弾きなさいと指示している
それは客席に自分の顔を見せるため

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音楽の父:ヨハン・セバスティアン・バッハ
バロック時代の巨匠と知られている
 
●音楽の父:バッハは、死後100年間 無名だった
 
生きている間も1000曲以上の曲を残しているが、
人気があった作曲家ではなかった
 
人気が無かったワケは、
主に田舎の教会や宮廷のためだけに作曲していたから
民衆に向けて流布することはなかった
 
死後100年後、音楽誌でバッハの曲が特集され、
やっとその才能が認められた

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●蓄音機の理論を発明したのは、エジソンではない
 
発明したのは、フランスの発明家:シャルル・クロ
 
シャルルは、エジソンよりも早く、
蓄音機の理論を論文にしてフランス科学協会に発表していた
 
しかしシャルルが発表したのは、蓄音機の理論のみ
まだ実物は作っていない状態
 
エジソンはシャルルよりも先に
蓄音機の実物を完成させ、特許をとった
 
他にも、グラハム・ベルが発明した電話機を改良し、実用化
 
ボルタが発明した電池を改良してアルカリ電池を作ったのが、エジソン

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●電球を発明したのは、エジソンではない
 
発明したのは、イギリスの科学者:ジョセフ・スワン
エジソンとスワンは、同じ時期に電球を開発していたライバル
スワンの方が、一足早く電球を作ることに成功していた
 
しかしスワンの電球は、
点灯時間が13時間と短く 一般家庭では使いづらかった
 
エジソンは、フィラメントを改良し、40時間の点灯を実現した
すぐに電力会社を創って販売すると見事、大成功
 
その後、エジソンは電球の特許侵害でスワンから訴えられている
 
そこでエジソンは、スワンと共同会社を創ることで和解
創った会社名は、エジソン&スワン電灯会社

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●地獄に通い閻魔大王に仕えていた小野篁
 
小野篁(おののたかむら)
遣隋使で有名な小野妹子の平安時代の子孫で、
昼は天皇に仕え、夜は閻魔大王に仕えていた
夜な夜な、六堂珍皇寺の井戸から地獄に通い、
地獄の裁判を手伝っていたと伝えられる
身長190㎝、威圧感と反骨精神で人々に恐れられていた
 
六堂珍皇寺には、小野篁が作ったとされる閻魔大王像と
小野篁像が安置されている
年に2度、特別参拝期間のみ拝められる

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