Category Archives: 歴史

●氷河に覆われ緑が少ない島が、グリーンランドと名付けられたワケ
 
大部分が北極圏に属し、
島の約80%以上は氷床と万年雪に覆われているグリーンランド
巨大なフィヨルドが多く、
氷の厚さは3000m以上に達する所もある
 
982年頃、アイスランドのバイキングで
殺人を犯した赤毛のエイリークが、
追放の旅の最中に島を発見した
赤毛のエイリークは、入植を促すために
氷河に覆われた島をグリーンランドと名付けた
アイスランドに帰還後、グリーンランドへ植民する仲間を募る
伝承では985年に25隻の船で出発し、
14隻が辿りついたとされている
 
逆に緑が多くあるアイスランドは、
その名前のために入植者が集まらず、人口が少ない

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ヨーロッパの貴族たちが、固形のチョコレートを食べ始めたのは、19世紀頃
その後産業革命を機に一般庶民にチョコレートが普及した
一つの産業として成長を始めた
そこでイギリスやフランスなど欧州諸国は、
カカオを栽培させるためにアフリカを植民地に
その流れに乗ってベルギーもアフリカに進出
1885年、コンゴを植民地化
欧州諸国は、文明化による発展を名目にアフリカを植民地化したのに対し、
ベルギーは、当時の国王:レオポルド2世の私有地としてコンゴを支配した
レオポルド2世は、自らの利益を得ることを主な目的とした
ノルマを課してカカオの栽培や天然素材の採取を強要した
ノルマを達成できない者は、手を切り落とすという残酷な統治をおこなった
数百万の先住民が犠牲となったと言われている

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尻尾が真っすぐな猫が多い関西に比べて、
関東では尻尾が曲がっている猫が多い
 
●関西より関東に尻曲がり猫が多い理由
 
江戸時代、庶民に可愛がられていた猫
そのころの猫は、尻尾が真っすぐだった
 
しかし化け猫の噂が広がり嫌われることに
それは尻尾が真っすぐな猫は年をとると
尻尾が二股に分かれて化け猫になる、という噂
佐賀で実際に起きた史実を
基にした怪談「鍋島化け猫騒動(1670年)」
主人の無念を背負い化け猫となったその姿を恐れた江戸の人々は、
尻尾の真っすぐな猫に尻尾を捨てたり、
ちょん切ったりと ひどい仕打ちをしたという
 
そのうち江戸の町から真っすぐな尻尾の猫がいなくなってしまう
 
日本にはいなかった尾曲がり猫は、長崎の出島から入って来た
猫を船に乗せないと航海の保険が下りない
運搬する生糸や砂糖を食べるネズミを退治する役目を担っていた
オランダ船は統治していたジャカルタで生糸と砂糖を積み、
ジャカルタの猫を乗せて、長崎の出島に
尾曲がり猫は、ジャカルタ生まれ
 
このころ、珍しい動物を江戸に持っていって売る動物商がいた
今、江戸の町では尻尾の真っすぐな猫が嫌われている
江戸で尾曲がり猫を売れば儲かると尾曲がり猫を大量に江戸で売り始めた

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東京医学校(現 東京大学医学部)の講師として招かれ、
明治天皇の主治医を務めたドイツ医師:ベルツが行った実験がある
 
●幕末の日本人は、強靭な肉体だった
ベルツが上野から日光へ旅行に行った時のこと
日光まで約110キロ、当時の旅人で3日かかる移動距離
さっそく人力車で向かったベルツだったが、
到着したのは14時間半後
たった半日で人力車夫は走破した
 
あまりの速さに驚いたベルツは
「いったい何を食べているの?」と聞いた
すると「玄米、ジャガイモ、味噌、麦、粟、百合根です」
余りの質素な食事にベルツは驚いた
 
ならば、その車夫たちにドイツで
食べている肉を与えればもっと速くなるのでは?と考え、
ベルツは、車夫たちに3週間 肉を食べて毎日40キロ走る実験を行った
しかし結果は、車夫は速くなるどころか たった3日でダウン
その後、元の食事に戻した途端、
元気に人力車を引っ張れるようになった

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現代でも警察官を お巡りさんと呼ぶが、
●お巡りさんは、江戸の治安を守った新徴組が語源
 
お巡りさんは、御身廻りが転じた言葉
御身廻りとは、新徴組の見廻りのこと
 
江戸庶民は江戸の治安を守る新徴組を頼りにしていた
 
江戸で将軍上洛の警護を目的とした
浪士組結成募集が行われ、京都へ上洛した際に、
清河八郎より将軍上洛の警護でなく尊王攘夷の先鋒を唱える。
同意した者は清河八郎に率いられて江戸に戻るが、
同意できなかった近藤勇や芹沢鴨など24名は袂を分かち
壬生浪士組を経て新選組を旗揚げすることになる
清河が暗殺されると幕府は浪士組を新徴組として再組織し、
元治元年(1864年)に庄内藩酒井家の御預かりとなり、
江戸を見廻り、秩序を乱す者を取り締まった
 
当時謳われた江戸歌謡
“酒井なければお江戸は立たぬ お廻りさんには泣く子も黙る”
 
見廻りは、朝8時から夜12時に過ぎまで街道の入り口や盛り場を重点に廻っていた

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紀元前2000年頃に誕生した最古の王朝 夏王朝
その後を継いだ殷、周…
初期の王朝は黄河中流域の中原と呼ばれる平原に栄えた
しかし紀元前8世紀、春秋戦国時代に突入する
中原は複数の国に分かれ、その周辺にも複数の国が乱立した
周辺の国が力をつけると中原の国々が同盟を結ぶように
彼らは同盟の際、夏王朝以来の伝統の儀式で結束を固めていった
 
●牛耳る
生贄としてささげる牛の耳を切り取り、
そこから取った血を参加者全員が口につける
これが夏王朝の伝統の儀式
最も有力な国が主導したことから、
牛耳を執る→牛耳るという故事が生まれた
 
●中華の語源
周辺勢力の拡大と共に益々 夏王朝の権威に頼る平原の国々
やがて自分たち自身のことを夏と呼ぶようになっていく
自らを夏でする一方で周辺勢力を蛮、戎、狄、夷などと呼び、
文化の劣った野蛮な人々だとして排除しようとした
「夏」に中心を意味する「中」と一緒になり、「中夏」となる
さらに「夏」の字が当時発音と意味が近かった「華」に転じ、「中華」となった

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幕府が開かれたときの徳川家康の総資産は、
金だけで総量17トン以上、現代の金額で約765億円
全てを合わせると現在の金額で1兆円にも達する
 
この規模の財を築けたワケは、
・豊臣秀吉の金を丸ごと横領
・武田信玄が考えた貨幣の仕組みを模倣
当時 物々交換が主流だった商取引を変えるべく、
高品質の貨幣を造り、領内に広く流通させた
その結果、お金の量をコントロールすることができ、経済の安定を図った
家康は、信玄の貨幣の仕組みを模倣し、全国に生き渡らせた
 
さらに家康は金山、銀山を所有し、
年間16万両の所得があったと言われる
現在の金額で約480億円
 
徳川幕府を盤石なものにするため
尾張、紀伊、水戸の御三家に5:5:3の割合で金を振り分けた

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大阪歴史博物館:大澤研一によると
●大阪城の石垣は、昆布のぬめりを利用して運ばれた
 
昆布を水で戻すと、ぬめり成分が出てくる
大阪城築城の際、巨石を運ぶため、
昆布を丸太の下に敷き、ぬめりを潤滑剤にしていた
 
この時 もたらされた大量の昆布は、
胃袋を満たすためにも使われ、
これまで大阪に無かった昆布出汁の文化が
根付いたと言われている
 
昆布のぬめり成分は、アルギン酸という食物繊維
腸内環境を整え、便秘が解消、ぽっこりお腹に効果的

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水野南北が記した「南北相法」
江戸時代にこの本が出版されたことで
日本中に手相や人相が広まった
現在にも通じるものが多く、バイブルとなっている
 
そんな南北相法は、
火葬場、髪結床、風呂屋でデータを集めた
 
水野南北は、手相や人相の統計をとるために
3年間 火葬場で働いた
 
焼いた後、骨まで観察し、
遺族から思い出話を聞き、故人の人となりを知る
次に髪結床で働き、人の現状の生活を見て、
何気ない会話から性格を読み取った
 
最後に風呂屋の手伝いをして、
合計9年でデータを集めて本にした

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●玉の輿の語源となった桂昌院の人生
桂昌院の名前が「お玉さん」だったという説があり、
そのお玉さんが輿に乗って江戸に向かったことから
玉の輿の語源となったと言われている
 
桂昌院は、京都の八百屋の娘として生まれた
下級武士だった本庄家から養女の誘いを受ける
元々は、父親が本庄家に野菜を納めていたことがきっかけだった
 
本庄家の養女となった桂昌院は、
公家出身の尼僧:お万の方の侍女として仕えることに
その後、尼僧は将軍の徳川家光に御目通りを願って挨拶をした
すると家光が一目惚れ、尼僧は側室になった
侍女だった桂昌院も身の回りの世話をするため
一緒に大奥に入ることに
 
すると桂昌院も家光に気に入られ、側室に
7年後、綱吉を産み、5代将軍となった

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