Category Archives: 歴史

現代でも警察官を お巡りさんと呼ぶが、
●お巡りさんは、江戸の治安を守った新徴組が語源
 
お巡りさんは、御身廻りが転じた言葉
御身廻りとは、新徴組の見廻りのこと
 
江戸庶民は江戸の治安を守る新徴組を頼りにしていた
 
江戸で将軍上洛の警護を目的とした
浪士組結成募集が行われ、京都へ上洛した際に、
清河八郎より将軍上洛の警護でなく尊王攘夷の先鋒を唱える。
同意した者は清河八郎に率いられて江戸に戻るが、
同意できなかった近藤勇や芹沢鴨など24名は袂を分かち
壬生浪士組を経て新選組を旗揚げすることになる
清河が暗殺されると幕府は浪士組を新徴組として再組織し、
元治元年(1864年)に庄内藩酒井家の御預かりとなり、
江戸を見廻り、秩序を乱す者を取り締まった
 
当時謳われた江戸歌謡
“酒井なければお江戸は立たぬ お廻りさんには泣く子も黙る”
 
見廻りは、朝8時から夜12時に過ぎまで街道の入り口や盛り場を重点に廻っていた

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紀元前2000年頃に誕生した最古の王朝 夏王朝
その後を継いだ殷、周…
初期の王朝は黄河中流域の中原と呼ばれる平原に栄えた
しかし紀元前8世紀、春秋戦国時代に突入する
中原は複数の国に分かれ、その周辺にも複数の国が乱立した
周辺の国が力をつけると中原の国々が同盟を結ぶように
彼らは同盟の際、夏王朝以来の伝統の儀式で結束を固めていった
 
●牛耳る
生贄としてささげる牛の耳を切り取り、
そこから取った血を参加者全員が口につける
これが夏王朝の伝統の儀式
最も有力な国が主導したことから、
牛耳を執る→牛耳るという故事が生まれた
 
●中華の語源
周辺勢力の拡大と共に益々 夏王朝の権威に頼る平原の国々
やがて自分たち自身のことを夏と呼ぶようになっていく
自らを夏でする一方で周辺勢力を蛮、戎、狄、夷などと呼び、
文化の劣った野蛮な人々だとして排除しようとした
「夏」に中心を意味する「中」と一緒になり、「中夏」となる
さらに「夏」の字が当時発音と意味が近かった「華」に転じ、「中華」となった

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幕府が開かれたときの徳川家康の総資産は、
金だけで総量17トン以上、現代の金額で約765億円
全てを合わせると現在の金額で1兆円にも達する
 
この規模の財を築けたワケは、
・豊臣秀吉の金を丸ごと横領
・武田信玄が考えた貨幣の仕組みを模倣
当時 物々交換が主流だった商取引を変えるべく、
高品質の貨幣を造り、領内に広く流通させた
その結果、お金の量をコントロールすることができ、経済の安定を図った
家康は、信玄の貨幣の仕組みを模倣し、全国に生き渡らせた
 
さらに家康は金山、銀山を所有し、
年間16万両の所得があったと言われる
現在の金額で約480億円
 
徳川幕府を盤石なものにするため
尾張、紀伊、水戸の御三家に5:5:3の割合で金を振り分けた

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大阪歴史博物館:大澤研一によると
●大阪城の石垣は、昆布のぬめりを利用して運ばれた
 
昆布を水で戻すと、ぬめり成分が出てくる
大阪城築城の際、巨石を運ぶため、
昆布を丸太の下に敷き、ぬめりを潤滑剤にしていた
 
この時 もたらされた大量の昆布は、
胃袋を満たすためにも使われ、
これまで大阪に無かった昆布出汁の文化が
根付いたと言われている
 
昆布のぬめり成分は、アルギン酸という食物繊維
腸内環境を整え、便秘が解消、ぽっこりお腹に効果的

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水野南北が記した「南北相法」
江戸時代にこの本が出版されたことで
日本中に手相や人相が広まった
現在にも通じるものが多く、バイブルとなっている
 
そんな南北相法は、
火葬場、髪結床、風呂屋でデータを集めた
 
水野南北は、手相や人相の統計をとるために
3年間 火葬場で働いた
 
焼いた後、骨まで観察し、
遺族から思い出話を聞き、故人の人となりを知る
次に髪結床で働き、人の現状の生活を見て、
何気ない会話から性格を読み取った
 
最後に風呂屋の手伝いをして、
合計9年でデータを集めて本にした

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●玉の輿の語源となった桂昌院の人生
桂昌院の名前が「お玉さん」だったという説があり、
そのお玉さんが輿に乗って江戸に向かったことから
玉の輿の語源となったと言われている
 
桂昌院は、京都の八百屋の娘として生まれた
下級武士だった本庄家から養女の誘いを受ける
元々は、父親が本庄家に野菜を納めていたことがきっかけだった
 
本庄家の養女となった桂昌院は、
公家出身の尼僧:お万の方の侍女として仕えることに
その後、尼僧は将軍の徳川家光に御目通りを願って挨拶をした
すると家光が一目惚れ、尼僧は側室になった
侍女だった桂昌院も身の回りの世話をするため
一緒に大奥に入ることに
 
すると桂昌院も家光に気に入られ、側室に
7年後、綱吉を産み、5代将軍となった

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シーボルトがオランダに持ち帰った日本のコレクション
それらは、ジャポニズムとして18世紀の西洋を席巻
 
葛飾北斎の絵は、モネやゴッホなど印象派の画家に影響を与えた
 
黒く艶のある漆器は、上流階級の貴族が魅せられ、
漆塗りそのものをジャパンと名付けたほど
 
19世紀、西洋では漆を手に入れるのが難しかったため、
ラッカーを塗り重ねて漆のような艶を出す技術が開発された
 
元々、ピアノは木目が見えるように仕上げるのが主流だった
しかし日本の漆器に魅せられた西洋の貴族たちが、
ピアノを漆のように黒くすることを求め、以来 黒が主流となった
 
ちなみに東京にあるオランダ大使館は、
長崎の出島を模して造られている

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●織田信長は「占いに根拠なし」を証明しようとした
 
古文書「朝野雑載」に信長が出した御触れが書かれている
“信長と同年同月同日同時に生まれしものを尋ね出し給う”
自分と同じ年月日、時間に生まれた男を探し出せ
 
当時の占いは、生年月日が同じであれば同じような運命を辿るが基本
 
その男が、どういう人生を辿ったのか?と
自分の人生を比較すれば占いに根拠がないことを証明できると考えた
 
そして1人の男が見つかる、その男は、極貧だった
生年月日による占いは、根拠がないと確信した
その極貧男は、「上様と私に差はありません。天下人でも貧しくとも明日のことが分からないのは みな同じなのです」と話したという

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●ベートーヴェンはナポレオンのスパイだった
それまでの音楽家は、教会か宮廷の業者でしかなかった
ナポレオンを尊敬していたベートーヴェンは、
宮廷に入るための礼装であるカツラを外し、
自分は民衆のために音楽を作ると音楽家が
アーティストとして確立する革命を起こした
 
1770年、ドイツのボンに生まれる
21歳でオーストリアのウィーンへ
このウィーンに住んでいた頃に、
ベートーヴェンが不審な行動をとっていた証拠が出てきた
・40回にも及ぶ謎の引っ越し
・謎のラブレター
研究者の間では、2つの不可解な点が指摘されている
宛名がなく誰に出そうとしたのか不明
エステルハージという貴族の名前が書かれた一文
当時、ヨーロッパはフランス革命の直後、
市民の革命運動を抑えるため手紙は全て検閲対象だった
ラブレターの中に隠しメッセージを入れることは、
密かに情報を伝えるための有効な方法であった
エステルハージとは、
ナポレオンと激しく対立していた有力な貴族だった
ベートーヴェンは、ナポレオン側の
スパイとして活動していたと考えられている
しかしナポレオンが皇帝になった後、
ベートーヴェンは献呈することを取り消した
 
●民謡を編曲しまくってお金を稼いでいた
レコードもCDもないこの時代、
音楽家たちの収入を支えていたのは、作曲した楽譜の売上
オーケストラ曲は、苦労の割に需要が少ないため金にならない
一方、民謡は、庶民に人気があり、その楽譜が売れる
さらに一から作るより、編曲の方が容易い
稼ぎの良いアルバイトとして民謡を編曲しまくっていた
そしてベートーヴェンは生涯に170曲以上の民謡を編曲した

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大塩平八郎は、大阪町奉行与力を務め、
身内の不正を摘発したり、生臭坊主を摘発したり
腐敗役人を糾弾するなど正義感の強い人物だった
 
1800年代中盤、200寝に帖続く江戸幕府は、徐々に腐敗し、
役人は賄賂を受け取るのが当たり前、
一方庶民には、贅沢を禁止する倹約令を発令
そして、天保の飢饉が起こり、
餓死してしまう庶民が後を絶たない状態
 
民を救うため、将軍へ送る米を分け与えるように嘆願したが、
一切 取り合ってもらえず、それどころか役人の贅沢が止まらない
救済処置をとらない幕府に対し、このままでは日本が滅んでしまう、
そう考えた大塩平八郎は、ある計画を立てる
それが大阪奉行所の襲撃計画
大阪奉行所を襲い、保管されてあった米を強奪する
1837年2月19日、大塩平八郎の乱
大塩平八郎は、「救民」の旗を掲げ挙兵し、
大坂の1/5が焼失する戦いとなったが、わずか半日で鎮圧された
その40日後、大塩平八郎は自害し、反乱は終結した
 
大塩は死ぬことも、負けることも覚悟していた
挙兵した本当の目的とは?
幕府の腐敗を世に知らしめることだったのかもしれない
 
武士階級に属する人が明確に幕府に
反乱の意思を示したのは、大塩平八郎が最初
 
大塩平八郎の乱は、西郷隆盛などに深い感銘を与えたと言われている
 
この事件の16年後、1853年7月8日 浦賀に黒船が来航する

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