人物」カテゴリーアーカイブ

渋沢栄一は、現在のみずほ銀行である第一国立銀行をはじめ、
りそな銀行、東京ガス、キリンビール、日本郵船、帝国ホテル、
東京急行電鉄、王子ホールディングスなど生涯約500の企業設立に貢献
日本資本主義の父と言われている
 
●論語と算盤
古代中国に起こった孔子の思想に基づく儒教は、
神への信仰ではなく人としてのあり方を唱えた
孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物が論語
渋沢は、算盤を持ちながらも片方の手には論語を持ち、
人の道を外れないようにビジネスを行うことを説いた
 
●年老いても精力旺盛
明治41年(1908年)、渋沢は、自宅近くに愛人を囲い、
68歳にして愛人との間に子供が産まれた
「いやぁ、お恥ずかしい。若気の至りで、つい…」と言葉を残している
 
●愛人宅で居留守
明治31年(1898年)、現サッポロビールの札幌麦酒株式会社の
専務取締役:植村澄三郎は、社内のトラブルに直面していた
取締役会長である渋沢にどうしても連絡をとる必要があり、
渋沢を探したのだが、居所がつかめない
そこで植村が勘を働かせ向かったのが、日本橋にある渋沢の愛人宅
「会社が大変なんです!渋沢会長は来ていませんか?」
すると奥から渋沢本人としか思えない声が聞こえてきた
「かようなところに渋沢のおるべき道理はありません。御用がおありなら明朝 宅の方をおたずねください、と申し上げなさい」
 
●静岡茶の発展
渋沢は、元々江戸幕府に仕えていた幕臣
1867年、大政奉還後、15代将軍 徳川慶喜は、駿府(静岡)に蟄居した
付き従った幕臣たちは、勝海舟の勧めで牧之原台地の辺りでお茶作りを始めた
1869年、渋沢は、茶農家に資金援助する銀行と商社の機能を併せ持った静岡商法会所を設立
資金繰りが苦しかった茶農家に貸し付けを行い、静岡茶発展の礎を築いた

(390)

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裁判所や検察の創設などに尽力した法の番人:江藤新平
1872年、39歳の時、初代 司法卿(法務大臣)に就任
司法制度の近代化を推進した
1874年、41歳の時、江藤は政府に
不満を募らせる士族の反乱を止めるために佐賀に下った
江藤は、自ら不平士族に接触、彼らの暴発を事前に抑えるべく諭したが、明治政府の見解は、違った
政府に不満を持つ江藤は、佐賀の不平士族と接触後、意見に押し切られ、一派の首謀者に担ぎ出された
その後、江藤は、政府相手に戦争まで始めた
戦争に負け、江藤は佐賀から鹿児島、高知に逃亡
指名手配の写真制度を作った江藤は、指名手配写真に第一号に適用されてしまう
その後、ひと月の逃亡の末、指名手配写真がきっかけで逮捕された
1874年に処刑され、41歳の若さでこの世を去った

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ジョギングの提唱者:ジム・フィックス
1970年代、アメリカで問題視されていた肥満に
効果的であるとジムが出版したジョギングの本がベストセラーに
 
そんなジムは、1984年 52歳の時にジョギング中に亡くなった
いつものようにジョギングをしていると胸が苦しくなり倒れた
死因は、心筋梗塞
 
このニュースは、全米に報じられ、
ジョギングは、体調により、心臓に負担をかけ危険な場合もあると分析された

(477)

19世紀、世界で初めて電話を発明したグラハム・ベル
そんなベルは、電話を発明したのに、電話が嫌いだった
 
妻メイベルによると、晩年のベルの口癖が、
「何で俺は電話なんか発明したんだ」
ベルは、突如鳴る電話によって仕事が中断されることを嫌い、
亡くなるまで書斎に電話を置かなかった
 
電話を嫌った理由は、他にもある
電話の特許を取得したことで、587件も訴えられた
 
●光のビームを使って音や声を伝送するフォトフォン
また1980年代に普及し始めた光通信システムの原理を100年前に発明している

(350)

武闘派として恐れられた独眼竜 伊達政宗
その一方で茶道や脳にも精通していた
さらに料理通の正宗は、トイレ付きの小部屋で毎日
朝夕2時間、トイレに籠り、その日の献立を考えるのが日課だった
正宗自ら炊事場に立ち、料理を作ることもあったという
 
1628年、徳川秀忠を招いた時、
この日のために献立や料理法を練りに練っていた伊達政宗は、
料理を作り、盛りつけ、配膳まで藩主である正宗が一人で行った
 
●現代に伝わる豪勢なおせち料理は、伊達政宗が作った
元日料理とは、現在のおせち料理
当時は、雑煮と数品を膳にした質素なモノだった
これに納得していなかった正宗は、現在の豪勢なおせち料理に変えた
現在では珍しい白鳥や貴重なクジラの肉も使っていた
その献立が、現在の一般家庭に伝わるおせち料理の原型と言われている
 
●ずんだ餅は、伊達政宗が考案した
先代を代表する銘菓 ずんだ餅
一説では、伊達政宗が戦に使う陣太刀で枝豆をすり潰したことから、
「じんだ」転じて「ずんだ」になったと言われている
 
●伊達政宗は、眼帯をつけていない
正宗が眼帯をつけている姿を初めて描いたのは、1942年の映画「独眼竜政宗」
この映画から伊達政宗のトレードマークが、眼帯になった

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1928年、新潟県刈羽郡に6人兄妹の末っ子として誕生
早くして身寄りを亡くした彼女は、17歳の時 同郷の男性と婚約
田中角栄と出会ったのは、角栄27歳、昭17歳の時
建設会社の社長だった角栄が、新潟2区から衆議院選に立候補するため
弁論部だった昭の婚約者の力を借りるためにやって来た
角栄に対する昭の第一印象は、年齢の割に老けた男性という印象しなかった
一方、角栄は、昭に一目惚れした
この時の選挙で落選したものの翌年 1947年、第23回 総選挙に当選
昭も夫と共に新潟から上京し、都内で電気工務店を開業
仕事は、角栄が代表を務めていた田中土建工業の下請けがほとんどで、よく角栄も会社に顔を出していた
そして帰りがけに決まって「奥さん いつまでも苦労はさせないからね」と言ったという
1951年、昭の夫の会社が倒産
夫は会社の再建に汗を流すこともなく酒浸りとなり、夫婦の間に深い亀裂が入っていた
結婚生活5年目、昭は離婚を決意した
離婚を噂を聞きつけた角栄は、昭の下に駆け付けた
「君 わしの秘書として働いてみるつもりはないか?」
昭は角栄の誘いに了承した
1952年12月1日、昭は初めて永田町にある第一議員会館に顔を出した
すでにこの時、角栄と昭は愛人関係になっていたという
最初に昭に与えられた仕事は、1万枚の年賀状のあて名書き
昭は2週間で書き終えた
角栄は、褒める代わりに次々に仕事を与えた
秘書になって数か月、昭は、角栄の期待に応えるように驚くべき能力を発揮する
「おい!あそこへ電話せい!」
せっかちな角栄は、誰に何の用件でかけるか詳しく言わなかった
しかし昭は「わかりました」
角栄のあそこの一言で即座に電話をかけられるようになっていた
 
角栄は昭を「君ほどの利口な女は初めてである」と評している
桁外れの判断力と実行力で、コンピューター付きブルドーザーと呼ばれた角栄にこう言わしめた昭
1953年、史上最強の後援会と呼ばれる組織 越山会が発足
角栄の後援会である政治団体で、その会員数は、最も多い時で約9万人
越山会にあらずんば人にあらず、と言われるほど選挙に滅法強く圧倒的な地盤を誇った
この巨大組織の金庫番で100億以上の資金を動かしていたのが、
角栄が会計責任者に任命した昭だった
 
のちに昭は、越山会の女王として政界に強い影響力を持つこととなる
出会いから約11年 1957年7月、昭は長女あつ子を出産
昭は、角栄に対して子供の認知を求めなかった
 
昭という最強の右腕を手に入れた角栄は政界を登り詰めていく
初当選から2年で、26の法律を作り、1957年、39歳の時に最年少で郵政大臣に就任
ついに昭は、第一秘書に登り詰めた
角栄はさらに仕事に邁進していく
それまでの郵政大臣が4年かけて手を付けられなかったテレビ放送の免許問題をたった2日で解決
現在の民間放送の原型をキー局、ネット局体制を完成させた
法案成立のため六法全書を丸暗記するほど努力を惜しまなかった
 
この頃から角栄の判断が必要な案件も、昭に判断を任せられるようになる
角栄は昭の仕事ぶりを「俺には代議士になる秘書はいらない。必要なのは実印を任せられる秘書だ」と評している
昭は、角栄を総理にするため、角栄に会いたいという人がいれば、
角栄の敵と思われる人も出合わせた
さらに有望な若手議員と角栄との窓口役にもなっていた
小沢一郎や橋本龍太郎など有望な人材は、積極的に角栄に合わせていた
昭は、角栄の金を握り、スケジュールを動かし、唯一意見できる存在にまでなっていた
1961年、43歳の時、自民党 政調会長に就任
1962年、大蔵大臣に就任
1968年、51歳の時に、2度目の自民党 幹事長に就任
この頃、昭は、角栄の総理就任後のことまで考え、ある提案をする
「総裁の任期は2年です。総裁になったら1年は思う存分政治に打ち込めるでしょう。でももう1年は、どうしても次の総裁選を睨んで行動しなければならない。せめて3年に延ばせば」
当時 自民党総裁の任期は2年
2年ごとに総裁選を繰り返さなけらばならなかった
それが3年になればもっと政治に集中できる
しかし総裁になった時に3年に延ばせば、延命策と批判を浴びかねない
「やるとしたら今です」
昭は、当時の総裁 佐藤政権下で変えてしまおうと考えた
 
1972年に発表した日本列島改造論
政治家では異例の90万部を超えるベストセラー
書かれているのは、現在実現している未来
地方を繋ぐ計1万㎞の高速道路計画、
9千㎞以上の新幹線網、主要都市への移動3時間県内を目指した
人、モノ、金の流れを逆流させ、過疎と過密を同時に解消する政策
そして1972年7月5日、第64代 内閣総理大臣に就任
 
内閣に就任した日に、角栄が昭に送ったラブレターの内容が
“愛君山岳心不移(君を愛する心は山岳のように移ろわない)角栄 昭どの”
第一次田中内閣は、70%の支持率を集めたが、
角栄の金権政治と越山会の女王報道によって急転直下する
スキャンダル発覚後も、政権内では田中続投と考えられていたが、
「パパ降りなさい」と娘の田中眞紀子の一言で
1974年11月26日、記事掲載から2か月、角栄は総理大臣辞職を表明
1976年2月、ロッキード事件で逮捕
保釈金を払い、釈放されると逮捕から5か月後の総選挙に立候補し、トップ当選を果たす
しかしロッキード事件の裁判は長引き、自民党を離党、無所属となった
最大勢力だった田中派の議員は、それぞれ分立
事務所に人が寄り付くことも少なくなった
1985年2月27日、大量の酒の飲みすぎによる脳卒中で角栄が倒れる
1か月の入院が余儀なくされた
田中家(田中眞紀子)の意向で事務所閉鎖を発表
1985年12月、佐藤昭新事務所 政経調査会を設立
理事には、小沢一郎や羽田元総理らが名を連ねた
昭は、角栄が復帰するまで、自ら政治団体を主宰し、田中角栄の城を守り抜こうとした
1993年12月16日、田中角栄死去
日本全国から人が押し寄せたが、昭は葬式に行くことも亡骸に会う事もできなかった
2010年3月11日、佐藤昭は東京の病院で息を引き取った
葬儀は家族葬で行われ、参列した政治家は、すでに引退していた一人だけだった

(1058)

●源氏物語を書いた紫式部は、亡くなった後、地獄に堕ちたと噂されている
 
紫式部が主人公 光源氏を通して、平安時代の男女の恋愛を描いた源氏物語
刺激的な源氏物語は、人々の心を惑わせたして
紫支部は、死後、地獄に堕ちたと言われている
そのために紫式部の墓は、小野篁の墓と同じ敷地に建てられた
 
小野篁は、平安時代に実在した優秀な役人
その論絶力は、当代一で閻魔大王とも交渉できたと言われている
 
地獄に堕ちた紫式部を閻魔大王を説き伏せることができる小野篁に
救ってもらうため、京都にある小野篁の墓と同じ敷地に紫式部の墓が建てられた

(265)

細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒の研究で知られる野口英世
実は、野口英世の元々の名前は、野口清作
 
●野口清作が英世に改名したワケ
坪内逍遥の流行小説「当世書生気質」と出会ったことがきっかけとなった
その本を読んで野口は驚いた
その内容は、田舎から出てきた秀才の医学生が、
女と酒にハマり、自堕落な生活を送るというもの
その主人公の名前が、野々口精作
さらに小説の精作は、最期 自暴自棄になって自殺してしまう
 
まるで自分の末路を書かれているようで怖くなった
野口はこの小説の主人公と無関係であることを示すために改名を決意した
 
しかし簡単に改名を認められない時代
改名を許された条件が、同じ村に同じ名前の者がいる場合
そこで野口は、たまたま同じ村で生まれた清作という赤ん坊を探し出し、
強引に野口家の養子縁組をした
こうして同じ村に2人の野口清作が誕生させ、役所に訴え、英世に改名した

(795)

天才 貼り絵画家だった山下清は、ドラマ「裸の大将」でおなじみ
 
●山下清は、白いランニングと短パンで旅をしていない
甥っ子の山下浩によると、
放浪中、夏は浴衣、冬はジャンパーにズボンだった
有名になると自宅でインタビューを受けることが多かった
暑がりだった清は、制作中 ランニングに短パン姿だった
その取材時の写真がきっかけで、山下清とランニングのイメージが結びついた
ドラマでは赤い傘を持っているが、完全なフィクション
 
●山下清は、旅先で絵を描いていない
清は放浪中、画材など絵を描く道具は持ち歩いていない
旅は絵を描くためではなく美しい風景を見るため、と生前に語っている
実際は半年~1年の放浪から帰宅して自宅で風景を思い出して絵を描いていた
作品は、驚異的な記憶力と徹底した細部へのこだわりが生み出している
 
●山下清は、おにぎりが大好きではなかった
清の好物は、寿司、すき焼き、天ぷら
旅先でお腹が空くと「食べ物ないのでご飯ください」と一軒一軒家を回った
10軒に1軒は、ご飯を貰えるが、一番多く貰ったのが、おにぎりだった

(930)

麻布十番の地下鉄もない頃、商店街には喫茶店が一軒だけしかなく、
よそ者や一見が遊べる雰囲気ではなかった
そこで喫茶店のマスターに「どうすれば仲良くなれる?」と聞いたところ、
土曜の夜に吸い殻の掃除をした青年団が飲むから、それに参加してみたら?」
と言われたので、「8時だヨ!全員集合」終わりに、
吸い殻拾いを手伝って青年団と飲むようになってから仲良くなった
●麻布十番の道路が石畳になったのは、志村けんのおかげ
志村けんが住み始めた頃、麻布十番は、下町風情が残るアーケード街だった
オシャレな街にするために商店街からアドバイスを求められ、
赤坂の一ツ通りの歩道の石畳がいいよ、とアドバイスした
仲良くなった志村けんは、麻布十番祭りのミスコンの審査員をしていたことも
 
●じゃんけんの「最初はグー」は、志村けんの発案
阪神の真弓と飲んで散々酔っ払って、
誰が払うかとじゃんけんで決めることに
でも皆 酔っ払っているため、バラバラでじゃんけんができない
そこで「グー出して、最初はグーで」から「最初はグー」が始まった
「8時だヨ!全員集合」で仲本工事とじゃんけんする際に
「最初はグー」をテレビで披露した

(476)

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