歴史」カテゴリーアーカイブ

織田信長に残忍なイメージがついたのは、
誇張された後世の軍記物語や編纂物による影響が強い
信長について書かれた史料は、2種類
1つは、400年前、信長の家臣が実際に見聞きして書いた資料「信長公記」
もう1つは、信長が死んだ後、
江戸時代の儒学者が信長公記をもとに書いた資料「信長記」
信長記は、大幅な脚色がされ、小説のような読み物になっている
現在の残忍なイメージの信長像は、信長記によって伝わっている
 
●織田信長は、実は優しかった
信長公記には現在の信長のイメージと違う姿が描かれている
 
ある日、信長一行が京都へ向かう道中、道端で汚らしい格好の男を見つけた
先祖が犯し祟りで体が動かくなったことを村人から聞くと、
次の日、村人たちに反物を与え、
男に小屋を造り、米と麦を与えるように世話を頼んだ
 
桶狭間の戦いの前哨戦に勝利したときのこと、
戦いによって家臣の多くが討ち死にした
それを知った信長は、勝利を喜ぶより、泣き崩れたという
 
ついに桶狭間の戦いで総大将の今川義元を破った信長
家臣から義元の首を献上された
捕らえた敵兵に首を持って駿河に戻し、
敵将と兵たちを弔うため供養塚を作らせた
 
この真実が書かれた信長公記は、
身分が高い人しか持っていなかったため、伝わりにくかった
より誇張されて書かれた読み物としての信長記は、瞬く間に庶民に広まった
 
●長篠の戦いの三段構えも、出展は小説のような信長記から

(531)

スポンサード リンク
●江戸時代前期まで日本人は、お風呂に着物を着て入っていた
 
その着物は、湯帷子(ゆかたびら)と呼ばれていた
 
江戸時代中期頃から裸で入浴するようになり、
湯帷子は、次第に夏の着物 浴衣となり、
入浴後の外出着になった
 
なので浴衣は、浴の衣の漢字が使われている

(149)

弥生時代は、日本列島における時代区分の一つであり、
紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代
縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代
 
●弥生時代の弥生の由来は、東京の弥生町
東京都文京区弥生町にある弥生二丁目遺跡から
発掘された土器が発見地に因み、
弥生式土器と呼ばれたことに由来する
千住で発見されれば、千住時代となっていたかもしれない

(281)

1966年に天平神護元年(765年)に書かれた木簡が
平城京跡で発見された
どの役人が役所の勤務を担当したかを記していた
2016年に赤外線カメラで撮影したところ、
これまで見えなかった部分が浮かび上がった
そこには大属(第四等官) 破斯清道と書かれていた
破斯とは、ペルシャを意味する言葉
 
8世紀、奈良 平城京でペルシャ人が役人として働いていたことが分かった
 
651年、ペルシャではサーサーン朝が滅ぼされ、
次の王朝に政権が移った
国を追われたサーサーン朝ペルシャの人々は、
シルクロードを渡って唐の長安に
そこには唐の文化を吸収するため遣唐使が日本から派遣されていた
唐での日本とペルシャの交流がきっかけとなり、
ペルシャ人が奈良へと渡り、
本人もしくは子孫が役人:破斯清道となったと考えられる

(148)

1863年、京都 新鮮組詰所
隊をまとめ上げるため、土方は局中法度を作った
掟を背いた者は、切腹
切腹したのは、39人に及ぶ
京都における新選組の死因は、
戦場での死亡よりも規律違反による処刑の方が圧倒的に多かった
 
隊士から鬼と恐れられた土方だが、とんでもない女たらしだった
関係を結んだ女性は数知れず
新鮮組のある京都だけでなく、
全国至る場所の女性と関係を結んでいた
さらにタチが悪い事に、
女性たちと遊ぶ金を遊女に負担させていたという
 
新鮮組の活動資金を援助していた小島鹿之助の下に土方から荷物が届いた
各地の女性から土方に届いた大量のラブレターを見せて、自分がモテることを証明した
この1年前に、土方から手紙が届いた
“嶋原では花君大夫、天神、一元。祇園では芸子が三人程います。北野では舞妓の君菊、小楽。大阪新町では若鶴太夫の他に二、三人もおります。北新地では沢山いて筆では書き尽くせません”
モテっぷりを証明したいために、その1年後にラブレターをまとめて送った
 
また現在の足立区加平の綾瀬川で釣りをしていただけで村中の女性が集まったという

(547)

兄 頼朝から命を狙われた義経は、京都を脱出し、奥州平泉に入った
平泉は、少年時代、父親代わりに保護してくれた藤原秀衡が治めていた
秀衡の死後、頼朝の圧力に負けた息子 泰衡に攻められ、1189年4月30日、衣川の戦いで、無念の最期を遂げたとされる
1189年9月、頼朝の狙いは独立王国だった奥州を攻め、義経の死後、25万の大軍を送り、奥州藤原氏は滅亡した
 
しかし義経だと思われ死んだのは影武者
東北各地には、義経が追手から逃れ、落ち延びていったという伝承が残る場所がある
 
平泉→遠野→釜石→宮古→久慈→八戸→十三湊→龍飛と続く
 
宮古市にある判官稲荷神社の縁起には、義経は平泉で討たれず、宮古まで落ち延びたと書かれている
 
久慈には源氏の御曹司が通ったと言われる源道と言う名の道がある
 
八戸には、義経が仏像を奉納したと云われる小田八幡宮、義経の館があったと言われる高館
そして おがみ神社の縁起には、義経は泰衡の襲撃の1年前に平泉を脱出、八戸に上陸。
十数年 八戸に居住し、奥方が死去。追手が迫っておるのを察知し、北を目指して旅立ったと書かれている
 
伝説では義経は龍の背中に乗って対岸の北海道に飛び去った、とされる。その岬の名が龍飛
 
義経の死から600年後、義経の死に疑問を持った三戸光圀は、三度に渡って蝦夷に探検隊を派遣した
その主な目的のひとつが、東北で死なず 北海道に渡った義経の足跡を探すこと
探索の報告によると、アイヌが崇める神、オキクルミ
オキクルミの別名は、ホンカン様
それは九郎判官義経公ではないか、と

(145)

●古代エジプトが滅亡したきっかけは、猫
 
古代エジプトにとって猫は、とても神聖な存在
街の至るところに猫の墓が造られ、
猫の顔をした神を崇めていたほど
もちろん猫を殺すことは絶対に許されない
 
紀元前525年、
それを知っていた敵国であるペルシャ帝国は、
猫を盾にしてエジプトに攻め込んだ
猫を殺せないから反撃できない
結果、戦争に負けて滅んでしまった

(650)

●日本の「にほん」と「にっぽん」の由来
日本と表記するようになったのは、飛鳥時代
当時の日本人は、「にほん」や
「にっぽん」ではなく「やまと」と呼んでいた
日本書紀には「日本と書いて これ 耶麻騰(やまと)と云う」と書かれている
平安時代になると中国との遣唐使による国交が盛んになる
当時の中国人は、「日本」という漢字を
「日」を「ニェット」、「本」を「プァン」と発音していた
「ニェットプァン」と呼ぶ中国人の発音を聞いた遣唐使が
日本に持ち込み、のちに「にっぽん」と転じるように
 
「にほん」という呼び方が広まったのは、江戸時代になってから
江戸時代の学者:本居宣長が
国名の由来についてまとめた書物「国号考」には、
“新たに にほんという”と記されており、
江戸時代は、「にほん」と呼ばれていた
●「にほん」は早口な江戸っ子によって生まれた
「にっぽん」を江戸っ子たちが
早口で話すうちに「にほん」に簡略化された
大坂を中心とする西の地域では「にっぽん」、
江戸を中心とする東の地域では「にほん」と呼ばれていた
なので大阪にある日本橋は「にっぽんばし」
東京にある日本橋は「にほんばし」と呼ばれている
 
●国の呼び方が2つある「にほん」「にっぽん」論争問題
1934年、岡田啓介内閣の時、国の呼び方を
「にっぽん」に統一しようと政府に提出されたが、
このときには、まとまらなかった
1970年、佐藤栄作内閣の時、大阪万博開催の前に
国の呼び名を再び「にっぽん」に統一しようと
国会で議論されたが、結論は出ず
2009年、麻生太郎内閣の時、「にほん」と「にっぽん」、
どちらか一歩に統一する必要はないと結論づけた

(1260)

本州と九州を隔てる関門海峡に浮かぶ舟島(巌流島)
1612年、29歳の宮本武蔵と
細川藩剣術指南役、18歳の佐々木小次郎の決闘が行われた
 
定説によれば、
通常 刀の二尺四寸(70㎝)だが、
小次郎の刀は三尺(約90㎝)の長刀
長い刀を操り、必殺技 燕返しで相対した
武蔵は心理戦に持ち込み、
わざと遅れて島に到着、小次郎を苛立たせた
そして船の櫓を削った木刀を振り落とし、絶命させた
 
●武蔵は遅れず、小次郎よりも長い刀を用いて勝利した、という説がある
細川家にまつわる資料が展示されている八代市立博物館
そこには、小次郎を倒した木刀を武蔵自身が再現した木刀が保管されている
細川家 家老 松井寄之が「佐々木小次郎と決闘した時の木刀はどんな形をしていたか?」と武蔵に聞くと、武蔵は即座に作りましょうと、自分で削った渡した木刀と伝えられている
その長さは、四尺、127㎝
武蔵は、小次郎よりも40㎝も長い刀を使っていたことになる
武蔵の戦歴を息子 伊織が残した小倉碑文には、“両雄同時に相会し”と記されている
この石碑は、武蔵の死後ほどなくして建てられている
 
●巌流島の決闘の真相
さらに近年の研究で巌流島の決闘の真相が分かってきた
武蔵が晩年に身を寄せた細川家 家老 沼田延元の功績を記した書、 巌流島の決闘から60年後に書かれた「沼田家記」には、巌流島の決闘にふれた記述がある
 
“1対1の約束だったが、武蔵の弟子がひそかに島に来ていた。武蔵の一撃で小次郎は倒れるが、死に至らず、ほどなく息を吹き返した小次郎を武蔵の弟子たちが撲殺した”定説とされる吉川英治の宮本武蔵の元となった「二天記」が
巌流島の決闘から120年後に書かれている
それよりも早い沼田家記の方が、信憑性があるのではと考えられている

(617)

●氷河に覆われ緑が少ない島が、グリーンランドと名付けられたワケ
 
大部分が北極圏に属し、
島の約80%以上は氷床と万年雪に覆われているグリーンランド
巨大なフィヨルドが多く、
氷の厚さは3000m以上に達する所もある
 
982年頃、アイスランドのバイキングで
殺人を犯した赤毛のエイリークが、
追放の旅の最中に島を発見した
赤毛のエイリークは、入植を促すために
氷河に覆われた島をグリーンランドと名付けた
アイスランドに帰還後、グリーンランドへ植民する仲間を募る
伝承では985年に25隻の船で出発し、
14隻が辿りついたとされている
 
逆に緑が多くあるアイスランドは、
その名前のために入植者が集まらず、人口が少ない

(166)

スポンサード リンク