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江戸時代、日本を統治していたのは徳川家

将軍は家康の直系から選ばれていた

それに次ぐ地位が、尾張、紀州、水戸の徳川御三家

水戸藩の初代藩主は徳川家康の11男 徳川頼房

頼房には正室がおらず、側室が9名いた

ある日、正式な側室ではなかった久子が身ごもった

しかしものすごく嫉妬深い側室が、久子の堕胎を懇願

頼房は仕方なく家臣の三木之次に堕胎を命じた

あまりにも久子を不憫に思った三木之次は、

三木家に久子をかくまい、密かに出産させた

その子は、幼い時から非凡な才能を発揮、

めきめき頭角を現し、立派に成人した

そして頼房が嫡子と、ついには後継ぎと認めるまでに

この子こそ、徳川光圀、のちに水戸黄門と呼ばれる人

 

三木之次がいなければ、水戸黄門は、この世に誕生していない

 

大正7年、三木之次の子孫 三木啓次郎は、

幕末の桜田門外の変で亡くなった水戸浪士の

お墓参りに大阪の四天王寺を訪れ、

寺の前でアイデア商品を売っている青年に会った

三木啓次郎は、その商品を見た時に100%売れると確信

自らの田畑を売った資金を青年に投資した

そのお金で青年は、アイデア商品を大量生産し、

販売したところ、瞬く間にヒットし、大企業の社長となった

そのアイデア商品こそ、二股ソケット

そして青年こそ、パナソニックの創業者 松下幸之助

松下幸之助は、三木啓次郎に恩義を感じ、

何とか恩返しをしたいと考えに考え抜いて

松下電器1社提供のナショナル劇場ドラマ「水戸黄門」の放送だった

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冷たい蕎麦にはワサビだが、温かい蕎麦には七味唐辛子
 
庶民の間で蕎麦が食べられるようになったのは、江戸時代初期
当時、蕎麦は傷みやすい食べ物で、冷蔵保存技術もなかったため
傷んだ蕎麦を食べてしまい食あたりを起こす人が多くいた
そこで消化を促し、解毒作用がある大根おろしのしぼり汁を薬味として使うように
大根の先端の辛い部分をすりおろしたしぼり汁を、そばつゆに混ぜていた
 
●冷たい蕎麦の薬味がワサビになったワケ
1612年、徳川家康は、隠居して駿府城で暮らしていた
家康は、栄養価が高い旬のモノ以外 口にしないというほどの健康オタク
大根の旬は冬
そこで家康のために献上されたのが、
駿府城の近くで栽培されていた解毒作用が高く、1年中食べられるワサビ
ワサビを気に入った家康の命により、
静岡県ではワサビ作りが盛んに行われるようになった
するとワサビは江戸にも伝わり冷たい蕎麦の薬味の定番となった
 
江戸時代中期になると冷たい蕎麦の他に冬に食べる温かいかけ蕎麦が人気に
しかしワサビに熱を加えると辛味が飛んでしまう
七味唐辛子は、熱を加えても辛味が飛ばない
さらに当時 唐辛子は薬としても使われていたため解毒効果も期待された
その後、江戸中の温かい蕎麦に七味唐辛子が使われるようになった

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浜松駅から徒歩20分の所にある浜松元城町東照宮(静岡県浜松市中区元城町111-2)
社務所もない宮司も常駐しない無人の神社だが、出世のパワースポットとして有名

元城町東照宮 (2)

鳥居の東照宮を書いたのは、徳川宗家18代の子、徳川家広
元城町東照宮手水舎
手水舎には、眠り猫、その天井には翼がある龍が装飾
社殿の左奥にあるご神木は、珍しいユーカリ
 
浜松元城町東照宮の50m四方には、曳馬城あった
 
●徳川家康の起点となった地
1570年、遠江地方を攻略する拠点として曳馬城に入城した徳川家康
城の名前、曳馬が「引く馬」に通じるということで名前を「浜松城」に変更
浜松城は、曳馬城を城郭に含まれるように普請された
1573年、武田軍が侵攻してきた三方ヶ原の戦いで大敗した家康は、
浜松城に逃げ帰り、空城の計を図り、警戒心を煽り事なきを得た
ここは後の天下人の起点の地
 
●豊臣秀吉が最初に武家となった地
豊臣秀吉の無名時代が記された古文書 太閤素生記
太閤素生記とは、武田信虎の旧臣土屋昌遠の孫であり、徳川秀忠の馬廻りの武士:土屋知貞が、その父や養母(秀吉の出身地である尾張国中々村の代官・稲熊助右衛門の娘)、飯尾豊前守の娘である祖母キサから伝え聞いた話をまとめた書物である
太閤素生記によると、織田信長に仕える前、16歳の秀吉は、曳馬城本丸で栗を食べる猿を真似て、今川氏の家臣、松下之綱に可愛がられ、武家奉公できるようになった
2人の天下人が人生のどん底から這い上がるきっかけが、同じ場所だった
 
●本田宗一郎
本田技研工業の前身となる旧本田技術研究所は、1946年に曳馬城跡の北 山下町(徒歩3分)に設立された
本多技研
翌1947年に発売した自転車用補助動力エンジン「ホンダA型」がヒットし、後のホンダの基礎となった
 
その地からほど近い神社である浜松元城町東照宮には、間違いなく参拝していたであろう

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●味噌煮込みうどんが名古屋の名物になったのは、武田信玄と徳川家康のおかげ
 
徳川家康の地元 岡崎城近くの八丁村で作られていた八丁味噌を
家康はこよなく愛し、何にでも使って食べていた
 
武田信玄は、太い麺と野菜を煮込んだ山梨の名物ほうとうを陣中食としていた
 
信玄亡き後、武田家は滅び、その家臣たちは、
ほうとう作りの技と共に徳川家に仕えると
そのほうとうを家康が大好きな八丁味噌で
煮込んだことで味噌煮込みうどんが誕生した

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幕府が開かれたときの徳川家康の総資産は、
金だけで総量17トン以上、現代の金額で約765億円
全てを合わせると現在の金額で1兆円にも達する
 
この規模の財を築けたワケは、
・豊臣秀吉の金を丸ごと横領
・武田信玄が考えた貨幣の仕組みを模倣
当時 物々交換が主流だった商取引を変えるべく、
高品質の貨幣を造り、領内に広く流通させた
その結果、お金の量をコントロールすることができ、経済の安定を図った
家康は、信玄の貨幣の仕組みを模倣し、全国に生き渡らせた
 
さらに家康は金山、銀山を所有し、
年間16万両の所得があったと言われる
現在の金額で約480億円
 
徳川幕府を盤石なものにするため
尾張、紀伊、水戸の御三家に5:5:3の割合で金を振り分けた

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