明治時代」タグアーカイブ

●一般的に使われる原稿用紙が400字になったワケ
 
原稿用紙が400字詰めになったのは、明治の文豪がズルをしないため
 
明治時代、作家の原稿料はページ数によて支払われていた
当時は、縦線だけが入った用紙(罫紙)に小説を書いていたが、
中には、文字を大きくしたり、
スペースを大きく空けてページ数を稼ぎ、
原稿料をかさ増しする作家もいたので、
困った出版社が横着を防ぐために
マス目のある原稿用紙が採用され、普及した
 
さらに江戸時代に書かれたお経が、
400字で読みやすかったため、
400字詰めの原稿用紙がつくられた

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岐阜県の地方銀行 十六銀行
宮城県の地方銀行 七十七銀行
香川県の地方銀行 百十四銀行
これら番号のついた銀行をナンバー銀行という
 
●銀行名に漢数字がついているワケ
これらの数字は、その銀行ができた順番を示している
江戸時代は、統一した貨幣制度がなかった
なのでお金もバラバラ、藩によって様々な金融機関があった
バラバラだった金融の仕組みを統一するため、
明治政府は、1872年、国立銀行条例により設立順に番号が割り振った
 
日本で最初にできた銀行が、渋沢栄一がつくった第一国立銀行
現在のみずほ銀行
他にも第二国立銀行は、鎌倉銀行などと合併した横浜銀行に
第三十四国立銀行は、三菱UFJ銀行
第三十八国立銀行は、三井住友銀行
第八十五国立銀行は、りそな銀行に
最終的に国立銀行条例で作られた銀行は、153もできた
当時の番号を現在も引き継いでいるのを、ナンバー銀行という
 
ちなみに長野県の地方銀行 八十二銀行は、
第十九国立銀行と第六十三銀行が合併して八十二銀行と名乗った

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ほとんどのうなぎ屋のうな重は、うな丼に比べて、量が多いだけの差しかない
 
そもそも うなぎは、5000年前の縄文時代から食べられていた
 
江戸時代に醤油が誕生したことで、醤油ダレにつけた うなぎの蒲焼きが生まれた
味の濃い うなぎの蒲焼きは、ご飯に合うことから
ウナギの蒲焼きをご飯にのせた うな丼が誕生
江戸の町に、800軒のうなぎ屋ができ、
人気店をまとめたうなぎ屋番付表も作られるほど庶民に親しまれていった
 
●うな重は、温かいまま届けるために誕生した
明治時代、洋食中心の役人がうなぎ屋にうな丼の出前を注文した
しかし店主が役人の家に配達したころには、うな丼が冷めてしまう
正月などに使われていた重箱にご飯を詰めて うな重を作り、
当時、ご飯を五右衛門風呂の上で保温していた方法を応用し、
お湯を入れた重箱を挟んで配達し、冷めないように工夫した
 
温かいまま届けるために生まれたうな重だったが、
見た目がうな丼より高級感があり、庶民の間でも人気となり、
店主は、うな丼とは別にうな重も店で提供し始めた
お重にうな丼の蒲焼きをそのまま乗せるとうなぎが小さいため、
お重に合わせてうなぎの量を増やして、値段を上げた

(229)

●元々 大阪は大坂だった
現在の大阪府のあたりが、
オオサカと呼ばれるようになったのは室町時代後期
当時の摂津に、浄土真宗の僧侶 蓮如が寺を建てた
近くに大きな坂がある寺だったので、
寺を意味する御坊をつけて、大坂御坊と名付けられた
 
その後、安土桃山時代になると天下統一した豊臣秀吉が、
大坂御坊の跡地に城を建てた
それが大阪城
現在は、コザトヘンの大阪城だが、江戸時代までは大坂城だった
そして次第に大坂城周辺の地域のことを大坂と表記するようになった
 
江戸時代後期になると、ツチヘンの大坂が縁起が悪いと
コザトヘンの大阪に変えていくようになった
坂を分解すると土反→土にかえる、と言い、
武士が、死を連想させると縁起が悪いとした
坂と同じ意味を持つ阪に変える風潮となり、
明治時代になると正式に大阪の阪がコザトヘンになった

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●「もりそば」と「ざるそば」の違い
海苔が乗っているそばが、ざるそば
海苔が乗っていないそばが、もりそば
 
●ざるそばは、もりそばに海苔を乗せただけ
日本で そばが食べられるようになったのは、室町時代
この時代のそばは、団子状で生や焼いたりして食べていた
現在のそばがきに近い
 
室町時代後期になると平らに伸ばして麺状に切るそばが誕生
つなぎの小麦粉が入っていないので、
すぐ切れるため今のそばよりも太かった
 
江戸時代になると小麦粉をつなぎに入れた二八そばが誕生
当時もそばは、つゆにつけて食べるのが一般的
木の器に盛っていたため、そばを盛る→もりそばと呼ばれるようになった
 
江戸時代中期、現在の江東区深川の伊勢屋という人気のそば屋があった
当時のそばは、お椀に盛られていた
しかしそばについていた水が、お椀の底に溜まり、味を損ねていた
そこで湯切りで使っていた大きなざるを小さくし、それを皿に乗せて提供した
そばがグチャグチャになることが無くなったので
最後まで美味しく食べられるようになった
ざるに盛ることから、ざるそばと名付けられた
伊勢屋のざるそばが人気になると、
ざるそばをメニューに加えるそば屋が続出
 
明治時代、ざるそばを出す店が増えたため、
海苔を乗せて高級感を出し差別化を図った店が登場
当時、海苔の生産量は少なく高価だった
他にもそばつゆにみりんを加えたり、
そばの量を増やすことで差別化を図る店も出てきた
海苔を乗せたざるそばは、物珍しさと香りが合い大人気となる
今では海苔を乗せていていないそばを、もりそば
海苔を乗せて高級感を出したそばを、ざるそばと呼ぶようになった
 
●そばをせいろに盛るようになったワケ
江戸時代末期になると物価の上昇によって、
そば粉の値段も上がり、そば屋の経営が難しくなった
そばの値段を上げるのをためらった店主は、そばの量を減らすことに
江戸幕府は、そば屋の値上げの陳情を却下し、底上げを認めた
この底上げをきっかけに、そばをせいろに盛るようになった

(187)

欧米の侵略に対抗するため1855年、長崎海軍伝習所を創設
軍艦 咸臨丸の艦長として太平洋を横断
1868年3月14日、江戸城無血開城
西郷隆盛と会談し、新政府軍は江戸への攻撃を中止
総攻撃が始まる直前、江戸150万人の命が守られた
1868年、薩摩藩、長州藩が中心となった明治新政府が誕生
勝海舟も旧幕府の代表格として海軍卿などの要職を歴任するも、すぐに辞任
 
●静岡をお茶の大国にするきっかけを作った
徳川家最後の将軍 慶喜と共に静岡県の駿府に移住
100年以上もの間、放置された幕府が
所有していた広大な土地でお茶の栽培を始める
その静岡の牧之原台地は、水はけがよい弱酸性の土質で
温暖な気候が茶の栽培に適していた
以前から勝は農業の知識を商人から学んでおり、
この土地がお茶栽培に適していると見抜いた
このころ江戸幕府が無くなったことで
徳川家に尽くしてきた多くの家臣たちが職を失っていた
そこで勝は、そんな彼らを静岡に呼び寄せ、
仕事を与えることで安定した生活を保証しようとした
 
●新潟で日本最古のワイン醸造所を創設
当時から米作が行われていた新潟では、
度重なる豪雪や洪水などでまともに収穫できない時が多かった
北方村の大地主:川上善兵衛は、そんな厳しい状況を勝に相談した
勝は、痩せた土地でも栽培できる葡萄でワインを作ることを勧めた
勝の助言をもとに善兵衛が新潟に開いたのが、岩の原葡萄園
そこには現存する日本最古のワイン醸造所の石倉が残っている

(179)

●そもそも日本は鎖国をしていなかった
鎖国をしていたと言われる17世紀から19世紀半、
日本は海外との交流を断っていたわけではなかった
幕府は長崎をはじめ、対馬、薩摩、松前で外交窓口を開き、
長崎でオランダ、対馬で中国、薩摩で琉球、松前でアイヌと貿易を行っていた
 
さらにペリーが来航し、開国を求めたアメリカとは、オランダを通じて貿易していた
日本からは金や銀を輸出し、アメリカからは毛皮などを
輸入していたことが明らかになっている
 
江戸幕府の後、政権を担った明治政府は、
急速に近代化を進めるため諸外国の文化を取り入れた
文明開化の時代、その成果を強調するために、
江戸幕府は外国の文化を入れず鎖国をしてきたと教えてきた
昨今の研究で諸外国と交流をしていたことが判明
●そもそも鎖国をしていた時代に鎖国という言葉は使っていなかった
ドイツ人のケンペルが日本の応益などについて書いた論文「日本誌」を
日本人が翻訳した時、本文にあった“今日のように日本国を閉鎖して その国民が国内においても国外においても…”の国と鎖を抜き出して、鎖国という言葉が創作された
 
黒船の武力を誇示して日本に開国を求めたと言われているアメリカ海軍のマシュー・ペリー
●黒船ペリーが来航した本当の理由
事実は、ペリーは、開国ではなく、開港を迫った
その理由は、捕鯨船の水や石炭の供給のため
ペリーが来航する少し前、日本の太平洋側は鯨が大量に生息しており、
良い漁場となっており、アメリカの捕鯨船が日本近海でたくさん操業していた
その安全を確保するために日本に開港を迫った
当時、鯨からとれる鯨油は、ランプなどの燃料として世界中で使われていた

(140)

カレンダーに書かれている大安、仏滅、赤口、先勝、
友引、先負は、六曜という中国から伝わった占い
6つの日は、縁起の良い順が決まっている
 
●六曜の縁起の良い順
大安→0時から24時まで縁起が良い吉
友引→11時から13時までが凶で、それ以外の時間帯は全て吉
先勝→0時から12時までは吉。12時から24時は凶
先負→0時から12時までは凶。12時から24時は吉
赤口→11時から13時までが吉で、それ以外の時間帯は全て凶
仏滅→0時から24時まで縁起が悪い凶
 
●六曜がカレンダーに載るようになったきっかけ
元々 暦に占いを載せる文化は昔からあったが、六曜ではなく
運勢を12パターンから占う十二直や
30パターンから占う納音(なっちん)など
六曜よりも複雑な占いが主流だった
庶民にとって占いは、生活の指針となっていた
しかし占いを信じ込むあまり、
賭博でお金を使い過ぎてしまうなど身を滅ぼす人が続出
 
明治5年、政府は占い禁止令を発令した
国民が根拠のない占いに惑わされているうちに
諸外国に遅れをとってと危惧し、暦に載っていた占いを全て禁止した
そこで暦屋は、禁止されていない六曜を載せた暦を売り出す
運勢が6パターンしかない六曜は、
単純でつまらないと全く人気がなく、
占い禁止令の対象に入っていなかった
生活の指針や占いを失っていた人々にとって
単純な六曜であろうと無いよりはマシと六曜が載った暦に殺到、
あっという間に全国に広まり、現在のカレンダーにも残っている

(1619)

●○○人と○○名 人数の数え方の違い
 
個人を特定できない場合は、○○人
個人を特定できる場合は、○○名
 
そもそも日本では人数を数える場合、
個人を特定できるか できないかに関わらず「○○人」を使っていた
「○○名」が使われるようになったのは、明治時代から
陸軍をはじめとする軍隊で使い始められたと考えられている
明治5年、明治政府は壬申戸籍という戸籍を作る
国民一人一人の名前、年齢、住所を把握するため
壬申戸籍をもとに満20歳の男性に徴兵検査を義務付けた
検査に合格した人は、軍人となった
明治になって創設された陸軍は、個人が特定できる組織
江戸時代までの古い組織と区別するため陸軍は、
人の数え方を「人」ではない数え方にわざわざ変えたと考えられる
個人が特定できることから名前の「名」からとった「○○名」という数え方に

(1328)

童謡「春の小川」のモデルとなったのは、
渋谷の地下を流れる渋谷川の支流、河骨川
代々木八幡の駅の付近に碑がたっている
 
今、日本人が日本語を話せるのは、「春の小川」のおかげ
●日本の英語化計画を食い止めた「春の小川」
江戸時代、300もの藩があり、
それぞれ独自の方言を持っていた
明治時代、廃藩置県で藩の垣根がなくなったが、
まだ日本語には標準語がなく、
日本人同士でも会話が成立しなかった
薩摩弁の大山巌と会津弁の捨松の夫婦生活は、
お互いの言葉が通じず、会話は英語で行われていたという
いっそのこと日本を英語で統一しよう、という話が上がるほど
 
童謡「春の小川」は方言を無くし、
標準語を広めるために作成された歌
 
「春の小川」には、サ行が多用されている
方言の多くは、「さしすせそ」と言えずに
「しゃししゅしぇしょ」と言う
サ行が言えない人を「春の小川」が標準語に矯正し、
日本の英語化計画を食い止めた

(866)

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