豊臣秀吉」タグアーカイブ

雷おこしの「おこし」は、遣唐使によって中国から伝来したお菓子
●雷おこしが浅草の名物になったワケ
 
雷門は、過去に3度火事に焼失、現在の雷門は四代目
三代目の雷門は、1795年 江戸中期に再建された
三代目の再建を祝して誕生したのが、雷おこし
浅草復興の興すという文字をとって雷おこしと名付けられた
 
ヒントを得たのは、大阪名物の岩おこし
豊臣秀吉の大阪城築城を祝い、大阪の掘りおこし岩おこしと
街の発展を祈願した縁起の良い名前にあやかった

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●将棋の駒が、王将と玉将に分かれているワケ
 
平安時代、将棋が誕生したころは、王将は存在せず、玉将だった
玉将の玉には、宝石、宝物という意味がある
玉将を王将に変えたのが、豊臣秀吉
将棋好きだった豊臣秀吉が、王じゃなきゃ嫌だと言ったため、
秀吉側の玉将を王将にした
 
玉将以外にも宝物を意味した駒がある
金将、銀将はもちろん、桂馬は肉桂(シナモン)、
香車はお香に由来しており、どれも平安時代には貴重なもとされていた

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浜松駅から徒歩20分の所にある浜松元城町東照宮(静岡県浜松市中区元城町111-2)
社務所もない宮司も常駐しない無人の神社だが、出世のパワースポットとして有名

元城町東照宮 (2)

鳥居の東照宮を書いたのは、徳川宗家18代の子、徳川家広
元城町東照宮手水舎
手水舎には、眠り猫、その天井には翼がある龍が装飾
社殿の左奥にあるご神木は、珍しいユーカリ
 
浜松元城町東照宮の50m四方には、曳馬城あった
 
●徳川家康の起点となった地
1570年、遠江地方を攻略する拠点として曳馬城に入城した徳川家康
城の名前、曳馬が「引く馬」に通じるということで名前を「浜松城」に変更
浜松城は、曳馬城を城郭に含まれるように普請された
1573年、武田軍が侵攻してきた三方ヶ原の戦いで大敗した家康は、
浜松城に逃げ帰り、空城の計を図り、警戒心を煽り事なきを得た
ここは後の天下人の起点の地
 
●豊臣秀吉が最初に武家となった地
豊臣秀吉の無名時代が記された古文書 太閤素生記
太閤素生記とは、武田信虎の旧臣土屋昌遠の孫であり、徳川秀忠の馬廻りの武士:土屋知貞が、その父や養母(秀吉の出身地である尾張国中々村の代官・稲熊助右衛門の娘)、飯尾豊前守の娘である祖母キサから伝え聞いた話をまとめた書物である
太閤素生記によると、織田信長に仕える前、16歳の秀吉は、曳馬城本丸で栗を食べる猿を真似て、今川氏の家臣、松下之綱に可愛がられ、武家奉公できるようになった
2人の天下人が人生のどん底から這い上がるきっかけが、同じ場所だった
 
●本田宗一郎
本田技研工業の前身となる旧本田技術研究所は、1946年に曳馬城跡の北 山下町(徒歩3分)に設立された
本多技研
翌1947年に発売した自転車用補助動力エンジン「ホンダA型」がヒットし、後のホンダの基礎となった
 
その地からほど近い神社である浜松元城町東照宮には、間違いなく参拝していたであろう

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日本三古湯の一つである有馬温泉
この有馬温泉の付近には、火山が存在しない
 
●火山が近くにない有馬温泉に温泉が湧くワケ
フィリピン海プレートが、ユーラシアプレートに
沈み込む際、海水も一緒に引き込まれる
引き込まれた海水は、マントルの熱で蒸発し
水蒸気となって地上に噴出する
その場所が、有馬温泉
 
●有馬温泉の歴史は古く、昔から皇族・貴族らに愛されてきた
 
日本最古泉とも言われる
631年に舒明天皇が3か月滞在したことが日本書紀に見られる
奈良時代には、僧 行基が温泉寺を建立
清少納言は、枕草子で有馬温泉に言及している
1176年に、後白河法皇と建春門院が御幸
1192年に、僧 仁西が戦乱で荒廃した有馬温泉に、
熊野十二神将に準え、十二軒の湯治宿を建て、
湯治場としての原型を作った
豊臣秀吉は有馬を愛し何度も訪れ、
更に温泉や周辺の改修を行った

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幕府が開かれたときの徳川家康の総資産は、
金だけで総量17トン以上、現代の金額で約765億円
全てを合わせると現在の金額で1兆円にも達する
 
この規模の財を築けたワケは、
・豊臣秀吉の金を丸ごと横領
・武田信玄が考えた貨幣の仕組みを模倣
当時 物々交換が主流だった商取引を変えるべく、
高品質の貨幣を造り、領内に広く流通させた
その結果、お金の量をコントロールすることができ、経済の安定を図った
家康は、信玄の貨幣の仕組みを模倣し、全国に生き渡らせた
 
さらに家康は金山、銀山を所有し、
年間16万両の所得があったと言われる
現在の金額で約480億円
 
徳川幕府を盤石なものにするため
尾張、紀伊、水戸の御三家に5:5:3の割合で金を振り分けた

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