水戸黄門の名を日本に広めた松下幸之助

江戸時代、日本を統治していたのは徳川家

将軍は家康の直系から選ばれていた

それに次ぐ地位が、尾張、紀州、水戸の徳川御三家

水戸藩の初代藩主は徳川家康の11男 徳川頼房

頼房には正室がおらず、側室が9名いた

ある日、正式な側室ではなかった久子が身ごもった

しかしものすごく嫉妬深い側室が、久子の堕胎を懇願

頼房は仕方なく家臣の三木之次に堕胎を命じた

あまりにも久子を不憫に思った三木之次は、

三木家に久子をかくまい、密かに出産させた

その子は、幼い時から非凡な才能を発揮、

めきめき頭角を現し、立派に成人した

そして頼房が嫡子と、ついには後継ぎと認めるまでに

この子こそ、徳川光圀、のちに水戸黄門と呼ばれる人

 

三木之次がいなければ、水戸黄門は、この世に誕生していない

 

大正7年、三木之次の子孫 三木啓次郎は、

幕末の桜田門外の変で亡くなった水戸浪士の

お墓参りに大阪の四天王寺を訪れ、

寺の前でアイデア商品を売っている青年に会った

三木啓次郎は、その商品を見た時に100%売れると確信

自らの田畑を売った資金を青年に投資した

そのお金で青年は、アイデア商品を大量生産し、

販売したところ、瞬く間にヒットし、大企業の社長となった

そのアイデア商品こそ、二股ソケット

そして青年こそ、パナソニックの創業者 松下幸之助

松下幸之助は、三木啓次郎に恩義を感じ、

何とか恩返しをしたいと考えに考え抜いて

松下電器1社提供のナショナル劇場ドラマ「水戸黄門」の放送だった

(9804)

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