天下の悪法として知られる徳川綱吉の生類憐みの令の本来の姿

悪法として知られる徳川綱吉の生類憐れみの令は、人々を苦しめたと伝えられてきた
コオロギや鈴虫を打った商人は投獄、
自宅の井戸に猫が落ちて死んだという罪で島流し、
蚊が止まった顔を叩いただけで島流しなど、本当の出来事として伝えられた
 
しかし近年、長野県の農村で発見された文書から生類憐みの令の本来の姿が見えてきた
そこには、幼少で親を亡くした子供は、
兄弟や親類縁者が責任をもって養育すべし、と書かれていた
綱吉は、捨て子を禁止したり、子供を殺してはいけない、
行き倒れた人を助けなければいけない、など社会福祉に重きを置いていた
 
●天下の悪法として知られる徳川綱吉の生類憐みの令の本来の姿
綱吉は、他人を思いやるなど人間性を重要視し、
家族や社会との絆を尊ぶ儒教の教えを大切にしていた
 
綱吉は、人の命を大切にするため武士に与えられていた特権 切り捨て御免を否定した
綱吉が儒教を世に広めたことで現在の平和的な日本人の気質を作った
 
その綱吉の考えをもとに生まれた風習が、現在でも残っている
家族との絆を大切にするために先祖と同じ墓に入る
江戸時代初期は、人が死ぬと個人個人で埋葬されていたが、
先祖と同じ墓に入るようになり、これが現在の「お墓参り」につながっていく
子供を大切に考える綱吉は、子供の成長の節目を祝う風習「七五三」も生んだ
綱吉が制定した服忌令という法律が元となって生まれた「忌引き」
野犬の横行と狂犬病を防ぐために中野の広大な犬屋敷に犬を集めた
 
多くの庶民が処罰されたと伝えられてきたが、実際に処罰されたのは、
著しく命を粗末にした武士を中心に70名ほどだったとのちの研究で分かった
 
●綱吉の生類憐みの令が悪法とされたのは、甥の家宣が原因
綱吉が死んで将軍を継いだのは、甥の家宣
綱吉と家宣には、生前から確執があった
そのため家宣は綱吉が行った数々の政策を批判、
さらに生類憐みの令を悪法と断じて廃止した
これがきっかけで名君であった綱吉のイメージは、反転する
 
ヨーロッパで初めて日本を詳しく紹介したドイツ人医師のケンペルは、綱吉を下記のように記している
非常に英邁な君主であるという印象を受けた
彼のもとで全国民が完全に調和して生活している
生活習慣や芸術、道徳の面であらゆる国の人々を凌駕している

(340)

スポンサード リンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

スポンサード リンク