平泉で死なず北海道に渡った源義経の伝承

兄 頼朝から命を狙われた義経は、京都を脱出し、奥州平泉に入った
平泉は、少年時代、父親代わりに保護してくれた藤原秀衡が治めていた
秀衡の死後、頼朝の圧力に負けた息子 泰衡に攻められ、1189年4月30日、衣川の戦いで、無念の最期を遂げたとされる
1189年9月、頼朝の狙いは独立王国だった奥州を攻め、義経の死後、25万の大軍を送り、奥州藤原氏は滅亡した
 
しかし義経だと思われ死んだのは影武者
東北各地には、義経が追手から逃れ、落ち延びていったという伝承が残る場所がある
 
平泉→遠野→釜石→宮古→久慈→八戸→十三湊→龍飛と続く
 
宮古市にある判官稲荷神社の縁起には、義経は平泉で討たれず、宮古まで落ち延びたと書かれている
 
久慈には源氏の御曹司が通ったと言われる源道と言う名の道がある
 
八戸には、義経が仏像を奉納したと云われる小田八幡宮、義経の館があったと言われる高館
そして おがみ神社の縁起には、義経は泰衡の襲撃の1年前に平泉を脱出、八戸に上陸。
十数年 八戸に居住し、奥方が死去。追手が迫っておるのを察知し、北を目指して旅立ったと書かれている
 
伝説では義経は龍の背中に乗って対岸の北海道に飛び去った、とされる。その岬の名が龍飛
 
義経の死から600年後、義経の死に疑問を持った三戸光圀は、三度に渡って蝦夷に探検隊を派遣した
その主な目的のひとつが、東北で死なず 北海道に渡った義経の足跡を探すこと
探索の報告によると、アイヌが崇める神、オキクルミ
オキクルミの別名は、ホンカン様
それは九郎判官義経公ではないか、と

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