Category Archives: 人物

開業の初年度をピークに入場者数は、どんどん減り続け、
約20年で客は、半分に落ちた
しかし2014年からV字回復
2017年には、過去最高の入場者数を達成
 
●サンリオピューロランドをV字回復させた小巻亜矢の改革
1983年にサンリオに入社
寿退社後、子供3人を生むもバツイチに
東京大学大学院で心理学を勉強
2014年、ピューロランドに赴任、改革を始める
2016年、功績が認められ初の女性館長に就任
 
1、ターゲットを変えた
改革前のターゲットは、子供とその家族
少子化時代、子供だけをターゲットにしていては、頭打ち
ターゲット層を広げるために
・ミュージカルを大人向けに
イケメン俳優が演じる2.5次元ミュージカルに
・パレードを大人向けに
子供向けのパレードをエンターテイメントのプロが手掛けるパレードに
衣装・装飾の監修を増田セバスチャン、音楽をヒャダイン、振付をMIKIKOが担当
 
2、従業員を変えた
小巻が復社した当時、業績悪化のため社員のモチベーションも低下していた
何かを褒める朝礼を実施
物事を注意深く観察する力が養われ、
お客さんの求めていることを察知する力につながる
他にも英会話、館内クイズ、グループディスカッション、
ジェスチャーしりとりなど日替わりで朝礼の内容を変えた
・従業員のトイレをピンク色に変え、鏡には女優ライトが備え付けた
 
3、キャラクターの輪郭線を無くした
黒い罫線のあるキャラクターが溢れると幼稚に振れてしまう
 
4、インバウンド対策の強化
・空港から最寄りの駅直通のラピングバスを運行
・中国のモバイル決済サービス アリペイを導入
・松竹が監修したキャラクターと歌舞伎を融合させたショー

(4)

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宇宙食は、元々、南極観測隊のために開発された
南極でも美味しい日本食が食べられるようにフリーズドライの技術が開発された
その技術が、宇宙食に転用された
 
●南極で初めて寿司を握った男
1968年、初めて民間人の大衆割烹の板前が参加した
新聞に掲載された南極観測隊の調理担当を募集を見て応募した
募集の期限はとっくに切れていたが、
当時の隊長に直談判し、見事採用された
 
南極の生活は過酷だった
中でも同じ人間、同じような景色が続くため、
隊のモチベーションは下がるばかり
普通に食事しても楽しくないので、南極の氷を彫刻刀で削り、溝を作り、
茹でたそうめんを流した流しそうめんは、盛り上がった
 
彼が最も力を入れたのは、寿司
日本から屋台のセットを持ち込み、屋台を組み立てて寿司を振舞った
隊のモチベーションは上がり、この観測で日本人初の南極点到達を果たす
今でも南極基地には、屋台が残され、伝統的に寿司が振舞われている
 
その屋台を閉まっている箱には、板前の本名:小堺秀男、
屋台ののれんには「鮨一機」と書かれている
 
そう南極で初めて寿司を握った小堺秀男は、小堺一機の父だった

(19)

●新選組は女遊びより男色が流行っていた
近藤勇は、新選組 隊内の男色ブームに気づいていた
“最近 女遊びはまったく 新選組では男色の方が流行っています”と
近藤直筆の手紙に書かれている
 
●近藤勇が美人ではなく地味な松井つねを妻に選んだワケ
25歳で結婚した近藤は、結婚前 お見合いを繰り返していた
文献によると、近藤は、2人の美しい女性との結婚を断っている
3人目の女性が身分の高い御三卿 清水徳川家の家臣の娘だった
容姿は、美人とは程遠い地味な女性
その女性が、松井つねで、文献にも「醜」と書かれている
 
近藤勇が美人ではなく地味な松井つねを妻に選んだのは、
道場に来る弟子が稽古に集中できなくなるから
 
結婚後、つねを江戸に残し、京都で新選組を結成
新政府軍に敗れ、志半ばにして江戸に帰ることになる
その帰還する船の上で、敗戦の悔しさより、
つねと再会できる嬉しさを周囲に語っていたという
この時、銀の指輪をつねに渡したという説もある

(15)

田沼意次は10代将軍 徳川家治に仕えた老中
政治に関心のない家治に代わり、幕府の方針を決定していた
 
元々、紀州出身の貧しい足軽の子供だった
勉学に優れ、8歳で大人顔負けの書を書くなど秀才ぶりを発揮
そして15歳の頃には、ありとあらゆる学問を修得
頭脳明晰な意次は、幕府内でも頭角を現し、将軍 家治から絶大な信頼を得る
 
意次が政治の実権を握っていた当時、幕府はとんでもない財政難
幕府に使える家臣に給料が払えなく、
庶民は物価高で買いたいものも買えなくなっていた
当時の幕府は、国土の開発から役人の給料まで農民の年貢だけで賄っていた
一方、米や醤油、酒などの日用品を取引する商人たちは、
大儲けしているのにもかかわらず税金を取られなかった
そんな状況を解消するため、意次は、商人から税金を取る仕組みを作った
 
●商人課税
米、味噌、酒、塩など大量に売れるものを特定の商人だけに扱わせる仕組み:株仲間
その任命権は、意次が担っていた
株仲間になった商人は、以前にも増して大儲け
その利益から幕府が税金をとる仕組みによって、商人から多額の税金を集めた
 
●大名課税
商人たちからだけでなく地方大名からも税金を徴収
 
●通貨の統一
当時、東と西で通貨がバラバラの状態だった
江戸では金貨、大阪では銀の通貨が使われていた
そのためスムーズな流通が行えていなかった
そこで意次は、全国で使える南鐐二朱銀を発行
南鐐二朱銀8枚で、金1枚と定め、全国に流通させた
すると各地で商売がスムーズに行えるようになり経済が活性化
この仕組みによって、幕府は172万両、現在の価値で1720億円もの黒字に転換
 
さらに意次は改革者としてだけでなく優れた人間性を持ち合わせていた
京都奉行所 与力 神沢杜口によると、自身の出世を謙遜し、下級の家来にまで親切に声をかけるなど少しも権威を誇るところが無かったという
成功したかに見えた改革は、地方大名から大きな反感を買っていた
さらに、1783年 浅間山が噴火、大量の死者が出たことにより疫病が発生
追い打ちをかけるように東北を襲った冷害で天明の大飢饉に
わずか2年ほどの間で天災に見舞われ、一説には全国で100万人の死者が出たという
これで庶民の生活はどん底に
各地の大名だけでなく庶民からも反感を買い、田沼意次は失脚した
意次の財政改革は、全て中止
意次は財産を没収され、屋敷の明け渡しを命じられた
1788年、田沼意次 死去
 
●賄賂政治家のイメージを広めたのは、徳川吉宗の孫
8代将軍 徳川吉宗の孫である松平定信は、意次とはライバル関係だった
意次の失脚後、政治の実権を握った
改革を全否定、意次の悪名を世間に広げたため、それが後世に伝わってしまった
 
出島で日本と貿易していたオランダ人 イサーク・ティチングは、
広く税金を取り通貨を統一した意次の改革を高く評価
田沼が一番日本の将来を考えていた。これで日本の進歩は閉ざされた

(17)

●女癖が悪すぎた勝海舟
23歳で売れっ子芸者だった2歳年上の民と結婚
その後、幕府内で出世し、お金の回りが良くなってくると女遊びをするように
勝が長崎の愛人に贈った和歌が残っている
“鶴が生涯 つがいで過ごすように 私も一生 あなたと添い遂げたい”
朝帰りする勝を自宅で待つ民は、一切 文句を言うことはなかったという
しかし結婚から10年経ったある日、
勝家で働く女中の増田糸と小西かねとの間に授かった子供を預かることに
民との子供4人、愛人2人とその子供2人が一つ屋根の下に住むこととなった
民は、自分の子供も愛人の子供も平等に接した
勝の女癖は、晩年になっても治らず、
さらに他の愛人との間に3人の子供をもうけた
 
●勝海舟の最期と妻の遺言
1899年1月19日、勝は突然 激しい頭痛に襲われた
気付けに生姜湯を持ってきてくれ、と女中で愛人の増田糸にお願いした
しかし生姜が見つからず、ブランデーを飲ませた
この2日後、脳出血により76歳で死去
 
その6年後、1905年、勝を献身的に支えてきた妻:民が最期を迎えようとしていた
死の直前、「一つだけ頼みがあるの…頼むから私の骨は勝のお墓に入れないで」と娘に要望
遺言は守られ、勝の墓がある洗足池のお墓ではなく、青山墓地に葬られた
その後、民のお墓は、勝の墓の隣に移されてしまった

(23)

欧米の侵略に対抗するため1855年、長崎海軍伝習所を創設
軍艦 咸臨丸の艦長として太平洋を横断
1868年3月14日、江戸城無血開城
西郷隆盛と会談し、新政府軍は江戸への攻撃を中止
総攻撃が始まる直前、江戸150万人の命が守られた
1868年、薩摩藩、長州藩が中心となった明治新政府が誕生
勝海舟も旧幕府の代表格として海軍卿などの要職を歴任するも、すぐに辞任
 
●静岡をお茶の大国にするきっかけを作った
徳川家最後の将軍 慶喜と共に静岡県の駿府に移住
100年以上もの間、放置された幕府が
所有していた広大な土地でお茶の栽培を始める
その静岡の牧之原台地は、水はけがよい弱酸性の土質で
温暖な気候が茶の栽培に適していた
以前から勝は農業の知識を商人から学んでおり、
この土地がお茶栽培に適していると見抜いた
このころ江戸幕府が無くなったことで
徳川家に尽くしてきた多くの家臣たちが職を失っていた
そこで勝は、そんな彼らを静岡に呼び寄せ、
仕事を与えることで安定した生活を保証しようとした
 
●新潟で日本最古のワイン醸造所を創設
当時から米作が行われていた新潟では、
度重なる豪雪や洪水などでまともに収穫できない時が多かった
北方村の大地主:川上善兵衛は、そんな厳しい状況を勝に相談した
勝は、痩せた土地でも栽培できる葡萄でワインを作ることを勧めた
勝の助言をもとに善兵衛が新潟に開いたのが、岩の原葡萄園
そこには現存する日本最古のワイン醸造所の石倉が残っている

(7)

1923年、文芸春秋社を創設し、その後、直木賞、芥川賞を制定した
菊池は顔が良いわけではないのに、俺は女も食欲と同じで食い足りてくれば捨てるばかりと思っている、と豪語する超遊び人
妻や娘も暮らす自宅に愛人を住まわせるほど相当な女好きと知られていた
 
●マント事件
1913年(大正2年)東京大学教養学部の前身にあたる第一高等学校の学生だった
このころ、特に親しかったのが、秀才でイケメンの佐野文夫
菊池は、学生時代、佐野に特別な想いを抱いていたという
ある日、女性とデートすることになった佐野は、
超エリートの象徴である学校指定のマントを羽織った
佐野は貧しさから、自分のマントはとっくに質に入れていたが、
デートで格好をつけるためマントを窃盗してきた
「あれ、お前マントは質に入れたんじゃなかったか?」と菊池が聞くと
「同郷の学生から借りてきた」と佐野は嘘をついた
 
デートで使って返しておけばよかったが、佐野は菊池に命じてさらに質屋に入れた
しかし盗まれた被害者が盗難届を出していた
窃盗事件として調べ上げられ、警察から問い詰められた菊池は、佐野を庇った
そのまま身代わり退学となり、菊池は第一高等学校を去る結果となった

(13)

1901年、京都
アメリカの大富豪ジョン・P・モルガンの
甥:ジョージ・モルガンは芸妓をしていたお雪と出会う
美しい踊りや細やかな気配りに惹かれたジョージは、
その日にプロポーズするも、お雪は断った
その後、ジョージは4年に渡って来日して、プロポーズを続けた
熱意が伝わり、世界的大富豪と芸妓の玉の輿婚が成立
そのニュースは世界中を駆け巡った
 
プロポーズを断っていたのは、お雪には心に決めた男性がいたから
その男性は、京都帝大生の川上俊介
お雪は、川上を献身的に支え、結婚を見据えていた
ジョージの熱烈なプロポーズに困り果てたお雪は、
断る方法を友人の牧野省三に相談
津川雅彦の祖父で、日本映画の父と言われた人物
牧野は、ジョージに諦めてもらうために見受け金を吹っ掛ける案を提案
牧野と相談した金額は、4万円、今の価値で8億円相当
 
「4万円いただければあなたと結婚します」
諦めるかと思いきや「もちろんお支払いします」
ジョージはあっさりと支払ってしまった
これで後には引けなくなったお雪は、結婚を快諾した
 
1907年、2人はフランスへ移住
世界的大富豪の妻としてパリの社交界にデビュー
1915年、ジョージが心臓麻痺で他界
結婚から11年目のことだった
その後、第二次世界大戦が勃発
お雪は、一通の手紙をモルガン一族に送った
“京都を爆撃しないでほしい”と
この懇願が伝わったかわからないが、戦後の祇園では、
お雪のおかげで京都は助かったと語り継がれている

(10)

明治の歌人:石川啄木の代表作
“はたらけど はたらけど猶 わが生活楽に ならざり”
 
学歴がなく仕事に就けなかったのだが、それは自業自得
中学時代(現盛岡一高)、カンニングを繰り返してバレたり、
出席日数不足や成績の悪さから退学勧告を受け中学を退学していた
 
最も迷惑をかけたのは、中学で一学年上だった金田一京助
金田一秀穂の祖父にあたる
お茶が無くなりお湯しか飲めないくらい石川啄木にお金を貸した
もちろん返済はされない
 
金が無くなれば友人から借金
63人の友人から借りた金額は、現在の2700万円相当にのぼる
当時の心境を詠んだ歌が、
“一度でも 我に頭を 下げさせた 奴ら全員 死にますように”
 
そんな啄木のせいで不遇な生活を強いられていたのが、
19歳の時に結婚した妻:節子
働かない啄木に代わって生活費を稼いでいた
執筆のためのインク代が無くなるほど生活は困窮
1907年(明治40年)、啄木21歳の時のこと、
北海道の新聞社 小樽日報の記者とて働き始めた
給料は25円、現在の50万円相当
しかし生活は楽になることはなかった
 
その理由は、啄木の死から数十年後、
啄木が残した日記が出版され明らかになる
“10人ばかりの女を買った。みつ、まさ、きよ、つゆ、はな、あき…名を忘れたのもある”とローマ字で書かれていた
借金をしていた理由は、浅草の遊郭通いだった
ローマ字で書いていた理由も書かれている
“予は妻を愛している愛しているからこそ、この日記を読ませたくないのだ”
 
啄木は亡くなる前、節子に日記を燃やすように命じたが、
節子は「愛着から燃やす事ができませんでした」と日記を金田一に託し、
図らずも日記は書籍化されてしまった

(16)

妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄し、儒学、俳諧、長崎へ遊学し、
本草学とオランダ語、医学、油絵、漢学、
鉱山の採掘や精錬の技術、オランダ博物学を学ぶ
秩父市の中津川で鉱山開発を行い、石綿などを発見し、
秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う
 
安永5年(1776年)に長崎で手に入れたエレキテルを修理して復元する
若い頃は、スポンサーが多かったが、晩年は少なくなり、お金に困っていた
安永8年(1779年)どん底の暮らしを送っていた源内に、
大名屋敷の修繕の仕事が舞い込む
仕事仲間だった大工の棟梁と共に修繕の計画を綿密に練っていった
そして修繕計画から見積もりまで全てをまとめた計画書が完成
ある日の夜、源内は計画書の完成を祝い、棟梁と2人で酒を飲んでいた
酒が進み、2人は酔って寝てしまう
源内が目を覚ますと完成したばかりの計画書が見当たらない
源内が棟梁を問い詰めると、棟梁はその場から立ち去った
源内は棟梁を追いかけ、刀で殺傷
11月21日、現在は殺人罪で投獄され、
12月18日に獄中で破傷風を患い、獄死した
 
実は、計画書は盗まれておらず、
酔った源内の勘違いだったことが後に分かる
 
解体新書で有名な杉田玄白らの手により源内の葬儀が行われた

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