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武闘派として恐れられた独眼竜 伊達政宗
その一方で茶道や脳にも精通していた
さらに料理通の正宗は、トイレ付きの小部屋で毎日
朝夕2時間、トイレに籠り、その日の献立を考えるのが日課だった
正宗自ら炊事場に立ち、料理を作ることもあったという
 
1628年、徳川秀忠を招いた時、
この日のために献立や料理法を練りに練っていた伊達政宗は、
料理を作り、盛りつけ、配膳まで藩主である正宗が一人で行った
 
●現代に伝わる豪勢なおせち料理は、伊達政宗が作った
元日料理とは、現在のおせち料理
当時は、雑煮と数品を膳にした質素なモノだった
これに納得していなかった正宗は、現在の豪勢なおせち料理に変えた
現在では珍しい白鳥や貴重なクジラの肉も使っていた
その献立が、現在の一般家庭に伝わるおせち料理の原型と言われている
 
●ずんだ餅は、伊達政宗が考案した
先代を代表する銘菓 ずんだ餅
一説では、伊達政宗が戦に使う陣太刀で枝豆をすり潰したことから、
「じんだ」転じて「ずんだ」になったと言われている
 
●伊達政宗は、眼帯をつけていない
正宗が眼帯をつけている姿を初めて描いたのは、1942年の映画「独眼竜政宗」
この映画から伊達政宗のトレードマークが、眼帯になった

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1928年、新潟県刈羽郡に6人兄妹の末っ子として誕生
早くして身寄りを亡くした彼女は、17歳の時 同郷の男性と婚約
田中角栄と出会ったのは、角栄27歳、昭17歳の時
建設会社の社長だった角栄が、新潟2区から衆議院選に立候補するため
弁論部だった昭の婚約者の力を借りるためにやって来た
角栄に対する昭の第一印象は、年齢の割に老けた男性という印象しなかった
一方、角栄は、昭に一目惚れした
この時の選挙で落選したものの翌年 1947年、第23回 総選挙に当選
昭も夫と共に新潟から上京し、都内で電気工務店を開業
仕事は、角栄が代表を務めていた田中土建工業の下請けがほとんどで、よく角栄も会社に顔を出していた
そして帰りがけに決まって「奥さん いつまでも苦労はさせないからね」と言ったという
1951年、昭の夫の会社が倒産
夫は会社の再建に汗を流すこともなく酒浸りとなり、夫婦の間に深い亀裂が入っていた
結婚生活5年目、昭は離婚を決意した
離婚を噂を聞きつけた角栄は、昭の下に駆け付けた
「君 わしの秘書として働いてみるつもりはないか?」
昭は角栄の誘いに了承した
1952年12月1日、昭は初めて永田町にある第一議員会館に顔を出した
すでにこの時、角栄と昭は愛人関係になっていたという
最初に昭に与えられた仕事は、1万枚の年賀状のあて名書き
昭は2週間で書き終えた
角栄は、褒める代わりに次々に仕事を与えた
秘書になって数か月、昭は、角栄の期待に応えるように驚くべき能力を発揮する
「おい!あそこへ電話せい!」
せっかちな角栄は、誰に何の用件でかけるか詳しく言わなかった
しかし昭は「わかりました」
角栄のあそこの一言で即座に電話をかけられるようになっていた
 
角栄は昭を「君ほどの利口な女は初めてである」と評している
桁外れの判断力と実行力で、コンピューター付きブルドーザーと呼ばれた角栄にこう言わしめた昭
1953年、史上最強の後援会と呼ばれる組織 越山会が発足
角栄の後援会である政治団体で、その会員数は、最も多い時で約9万人
越山会にあらずんば人にあらず、と言われるほど選挙に滅法強く圧倒的な地盤を誇った
この巨大組織の金庫番で100億以上の資金を動かしていたのが、
角栄が会計責任者に任命した昭だった
 
のちに昭は、越山会の女王として政界に強い影響力を持つこととなる
出会いから約11年 1957年7月、昭は長女あつ子を出産
昭は、角栄に対して子供の認知を求めなかった
 
昭という最強の右腕を手に入れた角栄は政界を登り詰めていく
初当選から2年で、26の法律を作り、1957年、39歳の時に最年少で郵政大臣に就任
ついに昭は、第一秘書に登り詰めた
角栄はさらに仕事に邁進していく
それまでの郵政大臣が4年かけて手を付けられなかったテレビ放送の免許問題をたった2日で解決
現在の民間放送の原型をキー局、ネット局体制を完成させた
法案成立のため六法全書を丸暗記するほど努力を惜しまなかった
 
この頃から角栄の判断が必要な案件も、昭に判断を任せられるようになる
角栄は昭の仕事ぶりを「俺には代議士になる秘書はいらない。必要なのは実印を任せられる秘書だ」と評している
昭は、角栄を総理にするため、角栄に会いたいという人がいれば、
角栄の敵と思われる人も出合わせた
さらに有望な若手議員と角栄との窓口役にもなっていた
小沢一郎や橋本龍太郎など有望な人材は、積極的に角栄に合わせていた
昭は、角栄の金を握り、スケジュールを動かし、唯一意見できる存在にまでなっていた
1961年、43歳の時、自民党 政調会長に就任
1962年、大蔵大臣に就任
1968年、51歳の時に、2度目の自民党 幹事長に就任
この頃、昭は、角栄の総理就任後のことまで考え、ある提案をする
「総裁の任期は2年です。総裁になったら1年は思う存分政治に打ち込めるでしょう。でももう1年は、どうしても次の総裁選を睨んで行動しなければならない。せめて3年に延ばせば」
当時 自民党総裁の任期は2年
2年ごとに総裁選を繰り返さなけらばならなかった
それが3年になればもっと政治に集中できる
しかし総裁になった時に3年に延ばせば、延命策と批判を浴びかねない
「やるとしたら今です」
昭は、当時の総裁 佐藤政権下で変えてしまおうと考えた
 
1972年に発表した日本列島改造論
政治家では異例の90万部を超えるベストセラー
書かれているのは、現在実現している未来
地方を繋ぐ計1万㎞の高速道路計画、
9千㎞以上の新幹線網、主要都市への移動3時間県内を目指した
人、モノ、金の流れを逆流させ、過疎と過密を同時に解消する政策
そして1972年7月5日、第64代 内閣総理大臣に就任
 
内閣に就任した日に、角栄が昭に送ったラブレターの内容が
“愛君山岳心不移(君を愛する心は山岳のように移ろわない)角栄 昭どの”
第一次田中内閣は、70%の支持率を集めたが、
角栄の金権政治と越山会の女王報道によって急転直下する
スキャンダル発覚後も、政権内では田中続投と考えられていたが、
「パパ降りなさい」と娘の田中眞紀子の一言で
1974年11月26日、記事掲載から2か月、角栄は総理大臣辞職を表明
1976年2月、ロッキード事件で逮捕
保釈金を払い、釈放されると逮捕から5か月後の総選挙に立候補し、トップ当選を果たす
しかしロッキード事件の裁判は長引き、自民党を離党、無所属となった
最大勢力だった田中派の議員は、それぞれ分立
事務所に人が寄り付くことも少なくなった
1985年2月27日、大量の酒の飲みすぎによる脳卒中で角栄が倒れる
1か月の入院が余儀なくされた
田中家(田中眞紀子)の意向で事務所閉鎖を発表
1985年12月、佐藤昭新事務所 政経調査会を設立
理事には、小沢一郎や羽田元総理らが名を連ねた
昭は、角栄が復帰するまで、自ら政治団体を主宰し、田中角栄の城を守り抜こうとした
1993年12月16日、田中角栄死去
日本全国から人が押し寄せたが、昭は葬式に行くことも亡骸に会う事もできなかった
2010年3月11日、佐藤昭は東京の病院で息を引き取った
葬儀は家族葬で行われ、参列した政治家は、すでに引退していた一人だけだった

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●源氏物語を書いた紫式部は、亡くなった後、地獄に堕ちたと噂されている
 
紫式部が主人公 光源氏を通して、平安時代の男女の恋愛を描いた源氏物語
刺激的な源氏物語は、人々の心を惑わせたして
紫支部は、死後、地獄に堕ちたと言われている
そのために紫式部の墓は、小野篁の墓と同じ敷地に建てられた
 
小野篁は、平安時代に実在した優秀な役人
その論絶力は、当代一で閻魔大王とも交渉できたと言われている
 
地獄に堕ちた紫式部を閻魔大王を説き伏せることができる小野篁に
救ってもらうため、京都にある小野篁の墓と同じ敷地に紫式部の墓が建てられた

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細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒の研究で知られる野口英世
実は、野口英世の元々の名前は、野口清作
 
●野口清作が英世に改名したワケ
坪内逍遥の流行小説「当世書生気質」と出会ったことがきっかけとなった
その本を読んで野口は驚いた
その内容は、田舎から出てきた秀才の医学生が、
女と酒にハマり、自堕落な生活を送るというもの
その主人公の名前が、野々口精作
さらに小説の精作は、最期 自暴自棄になって自殺してしまう
 
まるで自分の末路を書かれているようで怖くなった
野口はこの小説の主人公と無関係であることを示すために改名を決意した
 
しかし簡単に改名を認められない時代
改名を許された条件が、同じ村に同じ名前の者がいる場合
そこで野口は、たまたま同じ村で生まれた清作という赤ん坊を探し出し、
強引に野口家の養子縁組をした
こうして同じ村に2人の野口清作が誕生させ、役所に訴え、英世に改名した

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天才 貼り絵画家だった山下清は、ドラマ「裸の大将」でおなじみ
 
●山下清は、白いランニングと短パンで旅をしていない
甥っ子の山下浩によると、
放浪中、夏は浴衣、冬はジャンパーにズボンだった
有名になると自宅でインタビューを受けることが多かった
暑がりだった清は、制作中 ランニングに短パン姿だった
その取材時の写真がきっかけで、山下清とランニングのイメージが結びついた
ドラマでは赤い傘を持っているが、完全なフィクション
 
●山下清は、旅先で絵を描いていない
清は放浪中、画材など絵を描く道具は持ち歩いていない
旅は絵を描くためではなく美しい風景を見るため、と生前に語っている
実際は半年~1年の放浪から帰宅して自宅で風景を思い出して絵を描いていた
作品は、驚異的な記憶力と徹底した細部へのこだわりが生み出している
 
●山下清は、おにぎりが大好きではなかった
清の好物は、寿司、すき焼き、天ぷら
旅先でお腹が空くと「食べ物ないのでご飯ください」と一軒一軒家を回った
10軒に1軒は、ご飯を貰えるが、一番多く貰ったのが、おにぎりだった

(17)

麻布十番の地下鉄もない頃、商店街には喫茶店が一軒だけしかなく、
よそ者や一見が遊べる雰囲気ではなかった
そこで喫茶店のマスターに「どうすれば仲良くなれる?」と聞いたところ、
土曜の夜に吸い殻の掃除をした青年団が飲むから、それに参加してみたら?」
と言われたので、「8時だヨ!全員集合」終わりに、
吸い殻拾いを手伝って青年団と飲むようになってから仲良くなった
●麻布十番の道路が石畳になったのは、志村けんのおかげ
志村けんが住み始めた頃、麻布十番は、下町風情が残るアーケード街だった
オシャレな街にするために商店街からアドバイスを求められ、
赤坂の一ツ通りの歩道の石畳がいいよ、とアドバイスした
仲良くなった志村けんは、麻布十番祭りのミスコンの審査員をしていたことも
 
●じゃんけんの「最初はグー」は、志村けんの発案
阪神の真弓と飲んで散々酔っ払って、
誰が払うかとじゃんけんで決めることに
でも皆 酔っ払っているため、バラバラでじゃんけんができない
そこで「グー出して、最初はグーで」から「最初はグー」が始まった
「8時だヨ!全員集合」で仲本工事とじゃんけんする際に
「最初はグー」をテレビで披露した

(6)

開業の初年度をピークに入場者数は、どんどん減り続け、
約20年で客は、半分に落ちた
しかし2014年からV字回復
2017年には、過去最高の入場者数を達成
 
●サンリオピューロランドをV字回復させた小巻亜矢の改革
1983年にサンリオに入社
寿退社後、子供3人を生むもバツイチに
東京大学大学院で心理学を勉強
2014年、ピューロランドに赴任、改革を始める
2016年、功績が認められ初の女性館長に就任
 
1、ターゲットを変えた
改革前のターゲットは、子供とその家族
少子化時代、子供だけをターゲットにしていては、頭打ち
ターゲット層を広げるために
・ミュージカルを大人向けに
イケメン俳優が演じる2.5次元ミュージカルに
・パレードを大人向けに
子供向けのパレードをエンターテイメントのプロが手掛けるパレードに
衣装・装飾の監修を増田セバスチャン、音楽をヒャダイン、振付をMIKIKOが担当
 
2、従業員を変えた
小巻が復社した当時、業績悪化のため社員のモチベーションも低下していた
何かを褒める朝礼を実施
物事を注意深く観察する力が養われ、
お客さんの求めていることを察知する力につながる
他にも英会話、館内クイズ、グループディスカッション、
ジェスチャーしりとりなど日替わりで朝礼の内容を変えた
・従業員のトイレをピンク色に変え、鏡には女優ライトが備え付けた
 
3、キャラクターの輪郭線を無くした
黒い罫線のあるキャラクターが溢れると幼稚に振れてしまう
 
4、インバウンド対策の強化
・空港から最寄りの駅直通のラピングバスを運行
・中国のモバイル決済サービス アリペイを導入
・松竹が監修したキャラクターと歌舞伎を融合させたショー

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宇宙食は、元々、南極観測隊のために開発された
南極でも美味しい日本食が食べられるようにフリーズドライの技術が開発された
その技術が、宇宙食に転用された
 
●南極で初めて寿司を握った男
1968年、初めて民間人の大衆割烹の板前が参加した
新聞に掲載された南極観測隊の調理担当を募集を見て応募した
募集の期限はとっくに切れていたが、
当時の隊長に直談判し、見事採用された
 
南極の生活は過酷だった
中でも同じ人間、同じような景色が続くため、
隊のモチベーションは下がるばかり
普通に食事しても楽しくないので、南極の氷を彫刻刀で削り、溝を作り、
茹でたそうめんを流した流しそうめんは、盛り上がった
 
彼が最も力を入れたのは、寿司
日本から屋台のセットを持ち込み、屋台を組み立てて寿司を振舞った
隊のモチベーションは上がり、この観測で日本人初の南極点到達を果たす
今でも南極基地には、屋台が残され、伝統的に寿司が振舞われている
 
その屋台を閉まっている箱には、板前の本名:小堺秀男、
屋台ののれんには「鮨一機」と書かれている
 
そう南極で初めて寿司を握った小堺秀男は、小堺一機の父だった

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●新選組は女遊びより男色が流行っていた
近藤勇は、新選組 隊内の男色ブームに気づいていた
“最近 女遊びはまったく 新選組では男色の方が流行っています”と
近藤直筆の手紙に書かれている
 
●近藤勇が美人ではなく地味な松井つねを妻に選んだワケ
25歳で結婚した近藤は、結婚前 お見合いを繰り返していた
文献によると、近藤は、2人の美しい女性との結婚を断っている
3人目の女性が身分の高い御三卿 清水徳川家の家臣の娘だった
容姿は、美人とは程遠い地味な女性
その女性が、松井つねで、文献にも「醜」と書かれている
 
近藤勇が美人ではなく地味な松井つねを妻に選んだのは、
道場に来る弟子が稽古に集中できなくなるから
 
結婚後、つねを江戸に残し、京都で新選組を結成
新政府軍に敗れ、志半ばにして江戸に帰ることになる
その帰還する船の上で、敗戦の悔しさより、
つねと再会できる嬉しさを周囲に語っていたという
この時、銀の指輪をつねに渡したという説もある

(27)

田沼意次は10代将軍 徳川家治に仕えた老中
政治に関心のない家治に代わり、幕府の方針を決定していた
 
元々、紀州出身の貧しい足軽の子供だった
勉学に優れ、8歳で大人顔負けの書を書くなど秀才ぶりを発揮
そして15歳の頃には、ありとあらゆる学問を修得
頭脳明晰な意次は、幕府内でも頭角を現し、将軍 家治から絶大な信頼を得る
 
意次が政治の実権を握っていた当時、幕府はとんでもない財政難
幕府に使える家臣に給料が払えなく、
庶民は物価高で買いたいものも買えなくなっていた
当時の幕府は、国土の開発から役人の給料まで農民の年貢だけで賄っていた
一方、米や醤油、酒などの日用品を取引する商人たちは、
大儲けしているのにもかかわらず税金を取られなかった
そんな状況を解消するため、意次は、商人から税金を取る仕組みを作った
 
●商人課税
米、味噌、酒、塩など大量に売れるものを特定の商人だけに扱わせる仕組み:株仲間
その任命権は、意次が担っていた
株仲間になった商人は、以前にも増して大儲け
その利益から幕府が税金をとる仕組みによって、商人から多額の税金を集めた
 
●大名課税
商人たちからだけでなく地方大名からも税金を徴収
 
●通貨の統一
当時、東と西で通貨がバラバラの状態だった
江戸では金貨、大阪では銀の通貨が使われていた
そのためスムーズな流通が行えていなかった
そこで意次は、全国で使える南鐐二朱銀を発行
南鐐二朱銀8枚で、金1枚と定め、全国に流通させた
すると各地で商売がスムーズに行えるようになり経済が活性化
この仕組みによって、幕府は172万両、現在の価値で1720億円もの黒字に転換
 
さらに意次は改革者としてだけでなく優れた人間性を持ち合わせていた
京都奉行所 与力 神沢杜口によると、自身の出世を謙遜し、下級の家来にまで親切に声をかけるなど少しも権威を誇るところが無かったという
成功したかに見えた改革は、地方大名から大きな反感を買っていた
さらに、1783年 浅間山が噴火、大量の死者が出たことにより疫病が発生
追い打ちをかけるように東北を襲った冷害で天明の大飢饉に
わずか2年ほどの間で天災に見舞われ、一説には全国で100万人の死者が出たという
これで庶民の生活はどん底に
各地の大名だけでなく庶民からも反感を買い、田沼意次は失脚した
意次の財政改革は、全て中止
意次は財産を没収され、屋敷の明け渡しを命じられた
1788年、田沼意次 死去
 
●賄賂政治家のイメージを広めたのは、徳川吉宗の孫
8代将軍 徳川吉宗の孫である松平定信は、意次とはライバル関係だった
意次の失脚後、政治の実権を握った
改革を全否定、意次の悪名を世間に広げたため、それが後世に伝わってしまった
 
出島で日本と貿易していたオランダ人 イサーク・ティチングは、
広く税金を取り通貨を統一した意次の改革を高く評価
田沼が一番日本の将来を考えていた。これで日本の進歩は閉ざされた

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