伝統/慣習」カテゴリーアーカイブ

江戸川大学:斗鬼正一教授によると
●たこ揚げは、元々タコではなくイカだった
凧揚げは、5~6世紀ごろ、中国で誕生した
当時は、遊びではなく遠くの味方に合図を送るため戦に使われていた
敵に悟られないように鳥に似せて鳶の形をしていた
紙に鳶と書いて紙鳶と呼ばれていた
最初は戦に使われていたが、次第に中国の貴族の遊びとして定着
平安時代に日本に伝わり、日本の貴族の間でも流行
江戸時代に入ると庶民にも紙鳶が広がり、一大ブームとなる
四角形に長い足がついている姿が、イカに似ていることから
紙鳶は、いかのぼりと呼ばれるように
 
ブームとなると、いかのぼりが原因で喧嘩が頻発
さらに 落ちたいかのぼりに当たり、けが人や死者が出た
さらには大名行列に落ちて大事件になったりと当時の社会問題になった
1646年、幕府はついに いかのぼり禁止令を出した
それでも庶民のいかのぼり熱は冷めず、
いかのぼりの呼び方を、たこのぼりに変えて禁止令を無視して続けた
1656年、幕府は たこのぼり禁止令を出すが、一部の庶民は禁止令を無視
以来、いかのぼりは、たこのぼりで定着
たこのぼりを揚げることから、たこ揚げという呼び方に変わった

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日本の小学生はランドセルを背負って登校するが、義務ではない
 
幕末、幕府が洋式軍隊制度を導入する際、
将兵の携行物を収納するための装備品として、
オランダからもたらされた背嚢が原型
その背嚢をオランダ語でランセルと言い、
それが訛って「ランドセル」になった
 
現在使っている革製のランドセルを日本で最初に作ったのが、
初代内閣総理大臣:伊藤博文
後の大正天皇が学習院初等科に入学されるときに
入学祝いの品として献上、
それがきっかけで世間に徐々に浸透して現在のような慣習が生まれた

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花見は、奈良時代の貴族から始まった
当時の花見は、桜ではなく梅
奈良時代、中国に遣唐使が派遣された頃、
中国の貴族は、梅の花見をしていたおり、
梅の花見の文化は、そのまま日本に伝わった
山に生えていた梅の木を屋敷の庭に植えて花見をするようになった
 
平安時代 811年、貴族の間で梅の花見が大流行していた
桜の花見を最初に始めたのは、嵯峨天皇
当時、天皇は住んでいる京都御所から出ることは滅多になかったため、
嵯峨天皇は久しぶりの外出をとても楽しみにしていた
御所車に乗っていた嵯峨天皇の目に、
京都にある地主神社に咲いていた満開の桜が飛び込んできた
桜の美しさに感動した嵯峨天皇は、梅ではなく桜で花見をすることに
翌年の812年、地主神社の桜の枝を京都御所に持ってこさせ、
日本で初めて桜で花見をした
その後、嵯峨天皇の息子 仁明天皇によって
京都御所の梅の木を桜の木に植え替え、桜の花見の文化が定着していった

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●「のし」の誕生
奈良時代、人々は天皇に農作物や特産品を献上していた
海の近くに住んだいた人々は、あわびを献上品に
しかし生あわびは腐りやすいので、干物にすることに
干物にするには時間がかかってしまう
より早く乾かすためにあわびを細長く切り、
熱した鉄で薄く延ばすようになった
当時、伸ばすことを「熨す(のす)」と
言っていたので、熨しあわびと呼んでいた
熨しあわびは天皇に献上するほど貴重な物ということから、
いつしか相手への敬意を表す意味を持ち、
贈り物に添えて相手に渡すようになった
 
江戸時代には、より相手への敬意を表すために
干しあわびにきれいに紙で装飾するようになり、
だんだん豪華な装飾を施したモノに進化した
 
昭和になり戦後の物不足の影響と本物のあわびが高価だということから
次第に贈り物には印刷した熨しあわびをつけるようになった
 
●お葬式のお供え物や香典返しに「のし」をつけないワケ
贈り物に「のし」をつけるのは、
めでたい時と思いがちだが、本来は相手を敬うため
なので誕生日、結婚、出産、還暦、
謝罪などの贈り物をする際は、「のし」をつける
だが、お葬式のお供え物や香典返しには「のし」をつけてはいけない
お葬式では、仏教の教えで動物を殺生したモノを食べたり出してはいけない
「のし」は元々あわびを殺生して作られていたため
お葬式のお供え物や香典返しにそぐわない

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お年玉を入れるのに使われる「ポチ袋」
 
●お年玉を入れるポチ袋の「ポチ」は、「これっぽち」に由来する
 
少ないですが…という謙虚な気持ちを込めて
渡したためと言われている
 
元々は花街の舞妓や芸妓が、
心づけを渡すために袋として使われた始めた

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日本の雪だるまは、2段だが、
海外の雪だるまは、オラフを代表するように3段
 
●日本の雪だるまのモデルは、だるま
江戸時代の雪だるまは、だるまそっくりで
人の背丈くらいあり、縁起物として作られていた
その後、作りやすさから現在の2段重ねの雪だるまになった
 
●海外の雪だるまのモデルは、人間
スノーマンと呼ばれており、人間がモデルとなっている
人間を表しているから頭、胴体、下半身の3段で構成されている
雪像として作られたので人に近い形となっている

(739)

明治時代、当時 相撲部屋の食事は、
力士ごとに一人前ずつ料理が用意され、
親方、先輩、弟子が別々に分かれて食べていた
通算成績150勝15敗、圧倒的な強さを誇った第19代横綱 常陸山谷右衛門が籍を置く相撲部屋は、横綱に憧れる入門者が一気に増えた
そのため食事を作る料理版の負担が増え、手が回らなくなっていた
そこで何十人分もの料理を一気に作れる巨大な鍋を購入
鶏肉や野菜などを大量に入れて、鍋料理を作った
これまでは別々に分かれて食べていた親方と
力士が全員同じ鍋を囲んで一緒に食べるように
相撲部屋で父である親方と子である弟子が
一緒に食べることから
父を意味する「ちゃん」と子供の「こ」で
「ちゃんこ鍋」と呼ぶようになった
 
ちなみに、ちゃんこ鍋のダシは、
2本足で立つ鶏ダシを使うことが決まりとなっている

(192)

●かつて天皇は、池に映った月でお月見をされていた
 
昔 天皇は、神の存在であったため
上を見上げることができなかった
そのため天皇は、月を見上げられなかった
 
平安時代、嵯峨天皇は、お月見をしたがったため、
わざわざ離宮である大覚寺に周囲1キロもの人工池を造った
その水面に映った月でお月見を楽しまれた

(181)

●元々、ハロウィーンで飾るのは、カボチャではなくカブだった
 
ハロウィーンの起源は、アメリカではなく古代ケルト人の祭り
ケルト人とは、紀元前5世紀、ヨーロッパの中西部に住んでいた民族
 
ある男性の前に、たまたまカブが落ちていた
カブを拾い、悪魔からもらった火をカブの中に入れて
提灯にして彷徨っていたという伝説があった
 
その伝説がイギリスに伝わり悪霊を追い払うときに
カブの提灯が使われるようになった
イギリスの一部では、現在もカブを飾る習慣が残っている
 
その後 ハロウィーンは、海を渡り、アメリカへ
アメリカではカブに馴染みがなく、
代わりに収穫の多いカボチャを飾るようになり、世界に広まった

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大相撲では最終日を千秋楽と書くが、歌舞伎では最終日を千穐楽と書く
歌舞伎で最終日を千穐楽をと書くようになったのは、江戸時代から
元々は、大相撲と同じ、千秋楽を書いていた
 
江戸時代の芝居小屋は、木造の建物だったため火事の被害が多かった
1682年、天和の大火では、有名な芝居小屋が火災に巻き込まれるなど
芝居小屋にとって火事は深刻な問題だった
 
秋には、火が含まれている
火が火事を連想させるため使われなり、縁起の良い亀が用いられた

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