Category Archives: 名所/史跡

●小田急線 百合ヶ丘駅の名前の由来に、百合は関係ない
 
昭和24年、地元に駅が欲しいと地域住民の声を受け、
有力者が小田急電鉄に駅の建設を依頼した
その際に提示された条件が、安定した駅利用者の確保だった
 
地域の地主たちは私財を投じるなどして
昭和35年、県内初の近代的団地 百合丘団地を建設した
 
当時、駅を作るため土地の提供や開発に尽力した地主が128人
 
百人余りの地主が力を合わせてできた団地であることから
百合う丘、百合ヶ丘と名付けられた

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●東京の中野は昔、巨大な犬小屋だった
 
それを作ったのは、江戸幕府 5代将軍 徳川綱吉
鳥類憐みの令により江戸の町に野良犬が激増
街にあふれた犬を集め、多い時には10万頭を飼育
その飼育にかかる費用が、約100億円
犬小屋があった範囲は、
中野ブロードウェイを中心とした中野駅から高円寺周辺まで約30万坪
 
東京都中野区囲町は、犬を囲っていたことからつけられた地名

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広さは、東京ドーム 約11個分
東京都民の憩いの場として1971年に開園した代々木公園
●代々木公園は昔、東京オリンピックの選手村だった
 
敷地内には、選手の宿舎が200棟以上あった
世界93か国から集まった約6000人が泊まった
1964年の東京オリンピック開催にあたり
明治神宮周辺にある会場へのアクセスの良さから選手村として使われた
 
そもそも江戸時代には、大名や旗本らの下屋敷などが点在していた
明治維新後は民有地となり、一面の茶畑や桑畑に変わった
その後、大日本帝国陸軍の代々木練兵場
戦後、米軍の住宅地ワシントンハイツとして使用されていた

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●上野公園の不忍池は昔、競馬場だった
馬が走るコースが、現在の池の周りの道
明治17年、第1回のレースが開催された
出場者は、武者姿
ギャンブルではなく市民の娯楽として人気を博した
コース沿いには、馬見所という観客席が設けられていた
上野公園は、最新西洋文化を
お披露目するイベント会場としての顔を持っていた
明治40年には、万博も開かれ、
ウォータースライダーが設置されたこともあった
 
●浅草の雷門は昔、凱旋門だった
かつてナポレオンがロシアとの戦いに勝利した時、パリに建てた凱旋門
それに習い、1905年、日露戦争の勝利を記念して浅草に凱旋門を建てた
当時 戦争に強い国を目指していた日本は、
浅草だけでなく日本中に凱旋門を建設した

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紀伊国坂、芋洗坂、魚藍坂、於多福坂、帯坂、など
東京都心の坂には、やたらと名前がついている
 
●東京都心の坂に、やたらと名前がついているワケ
江戸時代、寺社や大名屋敷、武家屋敷が多い場所には、
町名がなかった
そこで不便を感じた江戸庶民は、坂に名前を付けて目印とした
 
例えば、
紀伊国坂は、坂の西側に紀州徳川家の屋敷があった
弥之助坂は、池上弥之助さんの家の前だった
芋洗坂は、諸説あるが坂下の朝日稲荷の前で芋が売られていたため
帯坂は、番町皿屋敷で有名なお菊さんに由来。お菊さんが、この坂を髪を振り乱して、帯を引ずって走ったことから
於多福坂は、坂の傾斜がお多福面のようだったから
魚藍坂は、坂の中腹に魚籃寺が存在することから

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紅葉シーズンになると大渋滞になる日光のいろは坂
日光市街と中禅寺湖を通り、全長15.9㎞、高低差440mもある坂
この坂は、元々 中善寺坂という名前だったが、
昭和初期に いろは坂と呼ばれ始め、のちに正式な名前になった
 
●日光のいろは坂の名の由来は、カーブの数
実際に いろは坂を走ってみると1つ目のカーブに「い」、
2つ目のカーブに「ろ」、3つ目のカーブに「は」と看板がある
カーブの合計は、上り下り合わせて48
48といえば、いろは48文字
数が同じなので、いろは坂と呼ばれるようになった
初めに いろは坂と言い始めたのは、ケーブルカーのガイドさん

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●アメ横の由来
アメ横は戦後、ジーパンやジッポなど、アメリカ進駐軍の横流し商品を多く販売してため
アメリカ横丁→アメ横と呼ばれるようになった
 
アメ横の看板は、4つあるが、
上野駅に最も近い看板だけ「アメヤ横丁」と書かれている
それは戦後の闇市があった場所で、飴屋が多かったから
御徒町方面にはアメリカ進駐軍の商品が多かったのに対して、上野方面には飴屋が多かった
戦後の上野駅では、列車待ちの人にアイスキャンディーを販売、それが大変人気があった
しかしアイスキャンディーは夏しか売れない
そこで年間通して売れる飴を売り出し、一番多い時で100軒以上飴屋が集まった
 
●アメ横の地下にある無国籍地下街
それがあるのは、アメ横センタービルの地下
そこには生きたザリガニや鯉、鶏の足、エイなど、
まるで東南アジアの市場のような光景が広がる
地下街の店舗全てが、アジア系の食材店
 
2004年ころは、アジア系食材店は2店舗のみ
創業60年の野田幸食品がタチウオを売り出してみると、なぜか中国人にバカ売れ
後々調べてみるとタチウオは中国で正月に食べる縁起の良い食材だった
すると野田幸食品に中国の高級食材を買い求めて外国人客が集まるように
アジア系の食材が売れることが分かると、次々と中国人が出店
色んな国のモノを売り出すと色んな国の客が来る
今では全ての店がアジア系食材の店となり、9割が外国人客となった

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261軒の中華料理店が軒を連ねる横浜中華街
年間 約2000万人が訪れる観光スポット
 
●横浜に中華街ができたのはワケ
実は中華街になる前、中国人たちは料理をせず、別の仕事をしていた
 
1858年、日米修好通商条約で貿易を開始
その交渉の場として外国人居留地に商館が建てられた
日本より先に欧米諸国と交易していた中国人は、
それらの国の言葉を話すことができた
そのため欧米人の言葉を日本人でも分かる漢字で通訳した
その後、外国人居留地が廃止され、中国人の職業に制限が設けられた
しかし料理は特殊技能のため、制限から免れ、
料理を作る仕事に従事するようになった
中華料理店は増えていき、横浜中華街になった

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●東京都世田谷区の成城が高級住宅街になったワケ
 
そのきっかけとなったのは、東宝スタジオ
ゴジラをはじめ黒澤明の「七人の侍」などを撮影したスタジオ
 
東宝スタジオ創設者:植村泰二は、
1931年、長女の泰子を成城学園に入学させるために、成城に引っ越し
それに伴って丸の内にあったスタジオもついでに成城に引っ越しさせた
 
すると黒澤明も三船敏郎をはじめ、みな成城の住人となる
さらに石原裕次郎や勝新太郎などの映画スターたちが成城に住み始め、
日本のビバリーヒルズと呼ばれる街となった

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武田薬品や第一三共をはじめ、日本橋周辺には、製薬会社が密集している
 
●東京 日本橋に製薬会社が密集しているワケ
 
1603年、徳川家康が日本橋 浜町近辺の埋め立て工事を始めた
工事は過酷を極め、重労働が原因で労働者が栄養失調になり、
それがもとで目を悪くする患者が増えた
薬の商人:益田友嘉が、目の病気に効く益田五霊膏を作ったところ、
たちまち大評判となり、売れに売れた
 
益田友嘉が居住を構えたのが日本橋本町だったため、多くの薬商人が集まってきた
明治に入っても薬問屋として賑わい、薬種問屋は結束して組合を作った

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