Category Archives: 名所/史跡

261軒の中華料理店が軒を連ねる横浜中華街
年間 約2000万人が訪れる観光スポット
 
●横浜に中華街ができたのはワケ
実は中華街になる前、中国人たちは料理をせず、別の仕事をしていた
 
1858年、日米修好通商条約で貿易を開始
その交渉の場として外国人居留地に商館が建てられた
日本より先に欧米諸国と交易していた中国人は、
それらの国の言葉を話すことができた
そのため欧米人の言葉を日本人でも分かる漢字で通訳した
その後、外国人居留地が廃止され、中国人の職業に制限が設けられた
しかし料理は特殊技能のため、制限から免れ、
料理を作る仕事に従事するようになった
中華料理店は増えていき、横浜中華街になった

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●東京都世田谷区の成城が高級住宅街になったワケ
 
そのきっかけとなったのは、東宝スタジオ
ゴジラをはじめ黒澤明の「七人の侍」などを撮影したスタジオ
 
東宝スタジオ創設者:植村泰二は、
1931年、長女の泰子を成城学園に入学させるために、成城に引っ越し
それに伴って丸の内にあったスタジオもついでに成城に引っ越しさせた
 
すると黒澤明も三船敏郎をはじめ、みな成城の住人となる
さらに石原裕次郎や勝新太郎などの映画スターたちが成城に住み始め、
日本のビバリーヒルズと呼ばれる街となった

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武田薬品や第一三共をはじめ、日本橋周辺には、製薬会社が密集している
 
●東京 日本橋に製薬会社が密集しているワケ
 
1603年、徳川家康が日本橋 浜町近辺の埋め立て工事を始めた
工事は過酷を極め、重労働が原因で労働者が栄養失調になり、
それがもとで目を悪くする患者が増えた
薬の商人:益田友嘉が、目の病気に効く益田五霊膏を作ったところ、
たちまち大評判となり、売れに売れた
 
益田友嘉が居住を構えたのが日本橋本町だったため、多くの薬商人が集まってきた
明治に入っても薬問屋として賑わい、薬種問屋は結束して組合を作った

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浜松駅から徒歩20分の所にある浜松元城町東照宮(静岡県浜松市中区元城町111-2)
社務所もない宮司も常駐しない無人の神社だが、出世のパワースポットとして有名

元城町東照宮 (2)

鳥居の東照宮を書いたのは、徳川宗家18代の子、徳川家広
元城町東照宮手水舎
手水舎には、眠り猫、その天井には翼がある龍が装飾
社殿の左奥にあるご神木は、珍しいユーカリ
 
浜松元城町東照宮の50m四方には、曳馬城あった
 
●徳川家康の起点となった地
1570年、遠江地方を攻略する拠点として曳馬城に入城した徳川家康
城の名前、曳馬が「引く馬」に通じるということで名前を「浜松城」に変更
浜松城は、曳馬城を城郭に含まれるように普請された
1573年、武田軍が侵攻してきた三方ヶ原の戦いで大敗した家康は、
浜松城に逃げ帰り、空城の計を図り、警戒心を煽り事なきを得た
ここは後の天下人の起点の地
 
●豊臣秀吉が最初に武家となった地
豊臣秀吉の無名時代が記された古文書 太閤素生記
太閤素生記とは、武田信虎の旧臣土屋昌遠の孫であり、徳川秀忠の馬廻りの武士:土屋知貞が、その父や養母(秀吉の出身地である尾張国中々村の代官・稲熊助右衛門の娘)、飯尾豊前守の娘である祖母キサから伝え聞いた話をまとめた書物である
太閤素生記によると、織田信長に仕える前、16歳の秀吉は、曳馬城本丸で栗を食べる猿を真似て、今川氏の家臣、松下之綱に可愛がられ、武家奉公できるようになった
2人の天下人が人生のどん底から這い上がるきっかけが、同じ場所だった
 
●本田宗一郎
本田技研工業の前身となる旧本田技術研究所は、1946年に曳馬城跡の北 山下町(徒歩3分)に設立された
本多技研
翌1947年に発売した自転車用補助動力エンジン「ホンダA型」がヒットし、後のホンダの基礎となった
 
その地からほど近い神社である浜松元城町東照宮には、間違いなく参拝していたであろう

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奈良公園には、野生の鹿が約1300頭がいる
しかし公園には、本来あるはずの鹿の糞がない
頻繁に掃除をしているわけでもない
 
その理由は、
●奈良公園に鹿の糞がないのは、糞虫が食べてしまうから
糞虫とは、フンコロガシなど糞を食料とする昆虫
 
1300年以上に渡り、多くの鹿が暮らす奈良公園は、
日本で最も多く糞虫が生息している
その種類は、50種類に及ぶ
四季それぞれに活躍する糞虫がいるため
公園が一年中キレイに保たれている

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巣鴨と言えば、おばあちゃんの原宿
巣鴨地蔵通り商店街には、年配者向けの衣料品店や甘味処が軒を連ねている
連日、大勢のお年寄りで大盛況
巣鴨がお年寄りも街となったきっかけは、とげぬき地蔵尊がある高岩寺
元々 上野駅の目の前にあった高岩寺は、区画整理に伴い、
1891年(明治24年)に巣鴨に移転した
当初は、参拝客が少なく、頭を痛めていた
寺の関係者が、参拝者を集めるために とげぬき地蔵尊と書かれた扇子を当時 開通したばかりの路面電車の座席の上に、
わざと置き忘れ、誰かに拾ってもらう広告を繰り返し、徐々に参拝者が増え始めた
人々の病気や悩みのとげを抜く御利益がある とげぬき地蔵尊のおかげで、お年寄りに人気の寺となった
昭和に入ると年配者向けの商売を始める店が増え、全国から大勢のお年寄りが集まるように

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神保町交差点から徒歩1分
1877年(明治10年)、日本初の大学 東京大学が創立された
すると周りに一橋大学、専修大学、日本大学、
明治大学、中央大学などが次々と造られ、神保町は学生の街になった
 
この機を狙っていち早く古書店を始めたのが、有斐閣の初代 江草斧太郎
江草斧太郎は、大学の新入生がお金がないため教科書が買えないことを知り、
卒業生から使わなくなった教科書を買い取り、安く売り始めた
学生は大喜び、店も大繁盛
 
その噂は広まり、全国各地から本屋が集まり、神保町は古本街になった
 
また神保町にカレー店が多いのは、本を読みながらでも食べられるから

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興福寺にある国宝 阿修羅像
一般的な阿修羅像は、鬼のような勇ましい顔だが、
興福寺の阿修羅像は、3面とも少年のような優しい顔
2009年、奈良大学の今津教授が阿修羅像のCTスキャンを行った
すると今の顔の下に全く違う顔があることが分かった
それは少年のような顔ではなく眉も目も吊り上がった厳しい表情
調査の結果、今の顔に変えられたのは、完成直前
 
●完成直前に顔を変えられた国宝 阿修羅像
そもそも阿修羅像は、第45代 聖武天皇の妻 光明皇后が、
亡くなった母親の供養のために仏師に依頼したモノ
 
続日本記によると、727年、光明皇后は、待望の男子 基王を授かる
本来なら成人でないと皇太子になれないところ、
基王は特別に生後33日で皇太子に即位
しかし基王は、1歳を待たずに亡くなってしまった
その6年後に造られたのが、優しい顔の阿修羅像
最愛の息子に会いたい、その想いが、
6歳に成長した息子に似せて造ったのではないかと考えられている
 
●阿修羅像の体重は、15㎏しかない
土で塗った像に布を張り、漆で塗り固める脱活乾漆技法
布が固まった後に土を抜き取るため軽くなる
この技法で造られたため、何度も火事に襲われても持ち運ぶことができた

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●鳥取砂丘は、ボランティアの力で砂丘をキープしている
 
鳥取砂丘は、草むしりしないと草原と化す
その原因は、防風林
 
防風林を造ったことで風が吹かなくなった
風が吹かなくなり、砂が飛ばなくなった
砂が飛ばなくなると鳥などが種子を運び、
草が生えるようになってしまった
 
そこでボランティアを募り、草を抜いて砂丘をキープしている

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昭和の初め、西浅草には150店もの和菓子店が軒を連ねていた
溶かした砂糖を木型に流し込んで作る金華糖が大ヒット
 
西浅草の和菓子店は、
近くにあった合羽橋の道具店に木型を大量に発注
 
それがきっかけで合羽橋には、
菓子道具や調理器具を扱う専門店が増加し、
現在の道具街に発展した

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