Category Archives: 発祥/起源/きっかけ

●鳩時計の鳴き声は、ポッポーではなくカッコー
鳩時計ではなくカッコー時計が正しい
カッコー時計は、1640年ころ、ドイツのシュヴァルツヴァルトで誕生した
カッコー時計を鳩時計と呼んでいるのは、世界で日本だけ
 
●日本で鳩時計と呼ばれるようになったワケ
日本では、カッコーを別名、閑古鳥と呼び、店などに置くには縁起が悪かった
 
日本で初めて作られたのは、終戦後の1945年
日本を元気にしたいという思いから、
平和の象徴 鳩をモチーフにポッポ時計として販売された

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261軒の中華料理店が軒を連ねる横浜中華街
年間 約2000万人が訪れる観光スポット
 
●横浜に中華街ができたのはワケ
実は中華街になる前、中国人たちは料理をせず、別の仕事をしていた
 
1858年、日米修好通商条約で貿易を開始
その交渉の場として外国人居留地に商館が建てられた
日本より先に欧米諸国と交易していた中国人は、
それらの国の言葉を話すことができた
そのため欧米人の言葉を日本人でも分かる漢字で通訳した
その後、外国人居留地が廃止され、中国人の職業に制限が設けられた
しかし料理は特殊技能のため、制限から免れ、
料理を作る仕事に従事するようになった
中華料理店は増えていき、横浜中華街になった

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●東京都世田谷区の成城が高級住宅街になったワケ
 
そのきっかけとなったのは、東宝スタジオ
ゴジラをはじめ黒澤明の「七人の侍」などを撮影したスタジオ
 
東宝スタジオ創設者:植村泰二は、
1931年、長女の泰子を成城学園に入学させるために、成城に引っ越し
それに伴って丸の内にあったスタジオもついでに成城に引っ越しさせた
 
すると黒澤明も三船敏郎をはじめ、みな成城の住人となる
さらに石原裕次郎や勝新太郎などの映画スターたちが成城に住み始め、
日本のビバリーヒルズと呼ばれる街となった

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●一人の銀行員の左遷がきっかけで、宝塚歌劇団が誕生した
 
三井銀行に勤めていた小林一三は、何度も左遷され、
ここにいても望みがないだろうと
鉄道会社  箕面有馬電気軌道(現 阪急電鉄)に転職した
 
箕面有馬電気軌道の売上を増やすために、
沿線に乗客を増やすための施設 宝塚新温泉(プール)を造る
しかしプールの運営方法など知らないため上手くいかなかった
水を抜いたプールで何かできないか、と考え、
プールに客席を並べ、脱衣所を舞台にして始めたのが、
宝塚歌劇団の前身 宝塚少女歌劇

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●文房具の文房とは、書斎のこと
元々中国の文人の書斎を文房と呼び、
文房の用具で、文房具と呼ばれるようになった
 
●模造紙の模造とは、上質な紙を模造した紙
1878年、パリ万博に出品した日本の局紙が、
ヨーロッパで高い評価を得た
その評判の局紙をオーストリアが模造し、安価に製造
これが模造局紙として日本に逆輸入された
危機を感じた日本の製紙業者が、
模造局紙をさらに模造して造ったのが、
現在でも使われている模造紙

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福井県鯖江市は、メガネの街
国産メガネフレームの95%を生産している
●福井県鯖江市が、メガネの街となったワケ
 
豪雪地帯の鯖江は、12月から3月の間、農家には仕事がなく困り果てていた
明治時代の有力議員 増永五左ヱ門は、
メガネ作りの本場 大阪からメガネ職人を呼び寄せ、農家に作り方を学ばせた
雪国育ちで我慢強く、やることもない農家は、どんどん技術が上達
品質も向上し、鯖江にメガネ作りが根付いた
 
増永五左ヱ門がメガネに目を付けたのは、新聞が普及したから
当時、日本は日露戦争 真っ最中
戦況を知りたい庶民の間で新聞が一気に普及し、メガネの需要が急増した

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東京都大田区蒲田には、餃子をウリにしている店が20店舗もある
●蒲田が、餃子の街になったワケ
 
蒲田に初めて餃子店を開いたのは、1983年に開店した你好
創業者は、八木功
歓迎の店主は、八木功の妹
歓迎別館の店主は、八木功の姪
金春本館の店主は、八木功の弟
春香園の店主は、八木功の甥
春香園2号館の店主は、八木功の甥の息子
你好 恵馨閣の店主は、八木功の娘
 
20店舗中、12店舗の店主が、八木功の血縁者
八木功が日本で初めて考案した羽根付き餃子が大ヒット
その作り方を兄弟や親戚に伝授して店を増やしていったから

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●カレンダーの土曜日が青色になった理由
 
1973年、第一次石油ショック
原油価格の高騰でスーパーから
トイレットペーパーが無くなるなど大混乱になった
節約しないといけないとの機運から、
企業が使う資源が減るなど週休2日が採用
 
土曜日が休みになるため、カレンダーの色を変えることに
カラー印刷が使っているのは、黒、赤、青、黄の4原色
黒は平日、赤は日曜日と祝日
黄色は、ボヤっとしてよく見えない
かけ合わせると印刷のズレで不備が出る恐れがある
結局、カレンダーの土曜日は、消去法で青になった

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●「おかめ」と「おたふく」は、モデルとなった女性が違う
「おかめ」と「おたふく」のどちらも夫婦円満、
子孫繁栄、商売繁盛などの幸福の象徴として扱われることが多いが、
それぞれモデルとなった女性が違う
 
●「おかめ」のモデルとなった女性
鎌倉時代初期、京都に長井飛騨守高次という名大工がいた
そんな高次に千本釈迦堂の建設が依頼された
張り切って作業していた高次だったが、
四本ある支柱の一本を短く切ってしまうミスを犯してしまう
支柱となる大きな木は、他に用意はできない
悩みこんでやつれていく高次を見かねた妻が助言した
短く切った柱に合わせ、他の三本も切り落としては、と
この窮地を救った妻の名が、阿亀(おかめ)
助言通りに短く切りそろえた高次は、
見事 のちに国宝となる本堂を完成させた
 
鎌倉時代は、女性が男性の仕事に口を出すなど言語道断の時代
一世一代の仕事に妻が助言したことが、
他人に知られたら夫の恥になると考えた阿亀は、
全てを秘密にしようと自ら命を絶った
 
高次は、阿亀に似せた面を千本釈迦堂に飾り、冥福を祈った
「おかめ」は、究極の内助の功として知れ渡り、
高次と阿亀は理想の夫婦として夫婦円満の守り神としても広まり、やがて幸福の象徴になった
現在、千本釈迦堂の境内には、おかめを祀ったおかめ塚が造られている
 
●「おたふく」のモデルとなった女性
モデルとなったのは、江戸時代、京都にいたお福という女性
とても貧しい家庭で育ったお福は、偶然すれ違った男性に声をかけられた
その男性は、福助人形で有名な叶福助で、呉服屋を営んでいた大金持ち
福助がお福に一目惚れ
お福は大金持ちの福助と結婚、貧しい生活から一転、生涯幸せに暮らした
そんなお福のシンデレラストーリーは、評判となり、
お福にたくさんの福が訪れた、ことからお多福と呼ばれるようになった
現在でも縁起物としてお多福と福助人形はペアで飾られることが多い
「おたふく」は、究極の玉の輿に乗った女性
 
「おかめ」も「おたふく」も偶然ふくよかな顔の女性で
幸せの象徴でもあったことから、次第に2人は混同されることになった

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日本人一人当たりが年間カレーを食べる回数は、平均73回
 
●カレーが日本の国民食になったきっかけは、食品偽装事件
 
昭和初期、カレーは高級料理の一つで、
庶民の口には入らない特別な料理だった
当時のレストランでは、イギリスのC&B社の高級カレー粉が主に使われていた
もちろん国産のカレー粉も造られていたが、
カレー粉はイギリス産というイメージが強く、
C&B社の2/3の価格でも全く売れなかった
1931年、密造団がC&B社の缶に
安い国産のカレー粉を詰めて販売する食品偽装事件が発覚
この事件は大きなニュースとなり、C&B社のカレー粉の流通はストップ
コックたちが仕方なく国産のカレー粉でカレーを作ったところ、
C&B社のカレー粉に遜色がない美味しさであることが分かった
この偽装事件により国産カレーが、安くて美味しいことが日本中に知れ渡った
手ごろな値段で食べられるようになるとカレーライスは、人気爆発
日本の国民食に成長した

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