発祥/起源/きっかけ」カテゴリーアーカイブ

日本の国旗、日の丸
白地に紅色というシンプルな配色
●日の丸の紅色を決めたのは、1人の大学生
 
それは当時、22歳だった吹浦忠正さん
生粋の国旗マニアだった大学生の吹浦さん
国旗があればどんな場所にも顔を出し、
関係者と国旗についてマニアックなトークで盛り上がっていた
1962年、吹浦さんの博識を
聞きつけた東京オリンピック組織委員会から連絡
東京オリンピックで使う国旗の監修を依頼される
オリンピックは、開催国が生地、染料、
色合いを各国に確認して製作している
日本の国旗だけでなく世界中の国旗を作らなければいけなかった
吹浦さんは、各国に国旗の色や材質を確認し、
世界中の国旗を作っていった
そこで日本の日の丸が、紅色という曖昧なことしか決まっておらず、
正式な色の定義が存在しないことが判明した
吹浦さんは、口紅を製造していた資生堂に依頼して、
紅のサンプルを入手
さらに一般の家庭500軒から国旗を拝借し、
紅色の平均値を出し、国民が思う日の丸の紅色を調査
試行錯誤の末、現在の日の丸の紅色を作り上げた
総理官邸に持っていき、官房長官に決めてもらいたいと要望したが、
官邸でも決めらず、関係省庁にも持って行ったが、
決められないと逃げられたため、
これは自分で決めるしかないと
日本の国旗を吹浦さんが決めることになった
 
●アフリカ大陸に、赤黄緑の国旗が多いワケ
アフリカ大陸は、欧米諸国の植民地となって苦しんだ国が多い
その中で唯一独立を守ったのが、エチオピア
エチオピアに対する敬意から同じ配色の国旗が多い

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皇居の周りを走る約5㎞のコースは、
皇居ランと呼ばれ、ランナーに人気
 
●皇居ランが流行ったきっかけは、銀座のホステス
 
1964年に行われた東京オリンピック
マラソン日本代表の円谷幸吉が激走を見せ、銅メダルを獲得し、
日本でランニングのブームが起こった
そのブームで走り始めたのが、銀座のホステスで
ホステスだけのマラソン大会まで行われた
それは大々的にニュースで報じられ、
ホステス以外も皇居の周りをランニングするようになった

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海外の幽霊には足があるが、日本の幽霊には足がない
●日本の幽霊に足がない理由
 
日本で初めて足の無い幽霊の絵を描いたのは、
江戸時代に活躍した絵師 円山応挙
 
中国の焚くと煙と共に死んだ者の姿が現れる伝説のお香 反魂香の図には、
煙で足が隠れているため死んだ者の足は描かれていない
その図は、日本にも伝わっている
 
ある日 円山の枕元に亡くなった妻が現れ、
慌てて描いたので足まで描写できなかったから
その円山の描いた足の無い幽霊画が広まったことで日本の幽霊は、足を無くした

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醤油の誕生は、偶然の産物だった
 
●醤油が誕生したのは、1254年 鎌倉時代
中国に渡り 禅宗を学んだ僧侶 心地覚心は、
径山寺味噌の製法を日本に持ち帰った
径山寺味噌とは、今も和歌山県などで生産される金山寺味噌
キュウリなどをつけて食べるもろみ味噌の一種
その味噌を作っていると、味噌樽から垂れる液体を見つけた
舐めてみると驚くほど美味しい
醤油は、金山寺味噌の副産物として誕生した
 
●醤油が庶民に普及したのは、江戸時代
醤油の一大産地が、今の千葉県野田市にできたことで江戸に醤油が一気に広がった
醤油の普及により、握り寿司、うなぎの蒲焼き、天ぷら、そばが食べられるように

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●鳩時計の鳴き声は、ポッポーではなくカッコー
鳩時計ではなくカッコー時計が正しい
カッコー時計は、1640年ころ、ドイツのシュヴァルツヴァルトで誕生した
カッコー時計を鳩時計と呼んでいるのは、世界で日本だけ
 
●日本で鳩時計と呼ばれるようになったワケ
日本では、カッコーを別名、閑古鳥と呼び、店などに置くには縁起が悪かった
 
日本で初めて作られたのは、終戦後の1945年
日本を元気にしたいという思いから、
平和の象徴 鳩をモチーフにポッポ時計として販売された

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261軒の中華料理店が軒を連ねる横浜中華街
年間 約2000万人が訪れる観光スポット
 
●横浜に中華街ができたのはワケ
実は中華街になる前、中国人たちは料理をせず、別の仕事をしていた
 
1858年、日米修好通商条約で貿易を開始
その交渉の場として外国人居留地に商館が建てられた
日本より先に欧米諸国と交易していた中国人は、
それらの国の言葉を話すことができた
そのため欧米人の言葉を日本人でも分かる漢字で通訳した
その後、外国人居留地が廃止され、中国人の職業に制限が設けられた
しかし料理は特殊技能のため、制限から免れ、
料理を作る仕事に従事するようになった
中華料理店は増えていき、横浜中華街になった

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●東京都世田谷区の成城が高級住宅街になったワケ
 
そのきっかけとなったのは、東宝スタジオ
ゴジラをはじめ黒澤明の「七人の侍」などを撮影したスタジオ
 
東宝スタジオ創設者:植村泰二は、
1931年、長女の泰子を成城学園に入学させるために、成城に引っ越し
それに伴って丸の内にあったスタジオもついでに成城に引っ越しさせた
 
すると黒澤明も三船敏郎をはじめ、みな成城の住人となる
さらに石原裕次郎や勝新太郎などの映画スターたちが成城に住み始め、
日本のビバリーヒルズと呼ばれる街となった

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●一人の銀行員の左遷がきっかけで、宝塚歌劇団が誕生した
 
三井銀行に勤めていた小林一三は、何度も左遷され、
ここにいても望みがないだろうと
鉄道会社  箕面有馬電気軌道(現 阪急電鉄)に転職した
 
箕面有馬電気軌道の売上を増やすために、
沿線に乗客を増やすための施設 宝塚新温泉(プール)を造る
しかしプールの運営方法など知らないため上手くいかなかった
水を抜いたプールで何かできないか、と考え、
プールに客席を並べ、脱衣所を舞台にして始めたのが、
宝塚歌劇団の前身 宝塚少女歌劇

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●文房具の文房とは、書斎のこと
元々中国の文人の書斎を文房と呼び、
文房の用具で、文房具と呼ばれるようになった
 
●模造紙の模造とは、上質な紙を模造した紙
1878年、パリ万博に出品した日本の局紙が、
ヨーロッパで高い評価を得た
その評判の局紙をオーストリアが模造し、安価に製造
これが模造局紙として日本に逆輸入された
危機を感じた日本の製紙業者が、
模造局紙をさらに模造して造ったのが、
現在でも使われている模造紙

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福井県鯖江市は、メガネの街
国産メガネフレームの95%を生産している
●福井県鯖江市が、メガネの街となったワケ
 
豪雪地帯の鯖江は、12月から3月の間、農家には仕事がなく困り果てていた
明治時代の有力議員 増永五左ヱ門は、
メガネ作りの本場 大阪からメガネ職人を呼び寄せ、農家に作り方を学ばせた
雪国育ちで我慢強く、やることもない農家は、どんどん技術が上達
品質も向上し、鯖江にメガネ作りが根付いた
 
増永五左ヱ門がメガネに目を付けたのは、新聞が普及したから
当時、日本は日露戦争 真っ最中
戦況を知りたい庶民の間で新聞が一気に普及し、メガネの需要が急増した

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