Category Archives: 食べ物/飲み物

●埼玉県本庄市のみで食べられているナピラとは?
 
 
ナピラとは、納豆ピザライスの略
 
作り方はシンプル
ご飯の上に醤油をかけた納豆をのせ、
ベーコンや野菜の具材をトッピングし、ピザソースをかけ、
チーズをのせてピザ風に焼き上げたら完成
 
誕生したのは、40年前
本庄市内の喫茶店で、余った納豆を使って生み出された
余り物で簡単に調理できることが評判を呼び、本庄市内の家庭に広まった
 
ナピラを食べられる店は、本庄市内に30店舗以上

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日本でよく食べられる青魚といえば、イワシ、サンマ、サバ、そしてアジ
サバ、サンマ、イワシの缶詰はあるが、アジの缶詰はない
 
●サバやサンマの缶詰はあるのに、アジの缶詰がないワケ
その理由は、アジは缶詰にすると臭くなるから
 
アジに限らず、サバなどの青魚の脂は、時間が経つと酸素と結びついてヘキサナールという臭いニオイを放つ成分が発生する
 
しかしサバやイワシには、脂と酸素の結びつきを止める抗酸化物質が多く含まれているので臭いニオイを放つヘキサナールが発生しにくくなる
 
そんな中、島根県浜田市にある会社シーライフが、臭くないアジの水煮缶を開発することに成功した
 
サバの水煮缶の製造工程は、カットして缶に詰めて、塩水を入れて、蓋を閉めて加熱するだが、アジの水煮缶は、缶に詰めた後に蒸して脂を捨て、ヘキサナールの発生を防いでいる

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●塩コショウには賞味期限があるが、塩には賞味期限がない
 
実際、塩のラベルを見ると、賞味期限の欄がない
 
食品の劣化は、水分や酸素、
細菌などの微生物など様々な現認によって引き起こされる
 
塩は無機物のため腐らない
コショウは有機物、風味も落ち劣化する
塩ではなくコショウに賞味期限を設定する必要がある

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ほとんどのうなぎ屋のうな重は、うな丼に比べて、量が多いだけの差しかない
 
そもそも うなぎは、5000年前の縄文時代から食べられていた
 
江戸時代に醤油が誕生したことで、醤油ダレにつけた うなぎの蒲焼きが生まれた
味の濃い うなぎの蒲焼きは、ご飯に合うことから
ウナギの蒲焼きをご飯にのせた うな丼が誕生
江戸の町に、800軒のうなぎ屋ができ、
人気店をまとめたうなぎ屋番付表も作られるほど庶民に親しまれていった
 
●うな重は、温かいまま届けるために誕生した
明治時代、洋食中心の役人がうなぎ屋にうな丼の出前を注文した
しかし店主が役人の家に配達したころには、うな丼が冷めてしまう
正月などに使われていた重箱にご飯を詰めて うな重を作り、
当時、ご飯を五右衛門風呂の上で保温していた方法を応用し、
お湯を入れた重箱を挟んで配達し、冷めないように工夫した
 
温かいまま届けるために生まれたうな重だったが、
見た目がうな丼より高級感があり、庶民の間でも人気となり、
店主は、うな丼とは別にうな重も店で提供し始めた
お重にうな丼の蒲焼きをそのまま乗せるとうなぎが小さいため、
お重に合わせてうなぎの量を増やして、値段を上げた

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●ワインをグラスに少ししかつがないワケは、香りを楽しむため
ワインはグラスの空いた空間に溜まった香りを楽しむ飲み物
なみなみついでしまうと香りが溜まらず外に逃げてしまう
 
●ビールをグラスになみなみつぐワケ
1698年、イギリスで、なみなみと注がないといけないという法律ができたから
当時、イギリスでビールを販売する時に店員が
わざと泡を多く入れてビールの量をごまかして不正に儲ける事件が横行した
グラスのメモリより上に液体を入れなければいけない、という決まりができた
江戸時代後期、日本にビールが伝来した際、
なみなみつぐ習慣も一緒に伝わったので現在、日本でもビールをなみなみついでいる
 
●日本酒を、升を受け皿にこぼれるまで注ぐワケ
昭和初期、庶民にとって日本酒はとても高価な飲み物だった
当然、客はなみなみとつぐように要望し、店主が注ぐ
なみなみついだところ、こぼれそうになった客がとっさに升を受け皿に
こうしてこの店では、升を受け皿に日本酒をなみなみとつぐようになり評判となった
やがて他の店でも真似をするように
他の店に負けないように、こぼすまでつぐように
こぼすつぎ方は、他の店でも真似し、競ってこぼすように
いつしか日本酒をどれだけこぼすかが店の心意気を表すバロメーターになっていった
その名残で日本酒はグラスからこぼしてついでいる

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グリーンアスパラガスとホワイトアスパラガスは、同じ品種だが、育て方が違う
日光に当てて成長させたのが、グリーンアスパラガス
日光に当てずに成長させたのが、ホワイトアスパラガス
グリーンアスパラガスは、国内で販売されるために作られているので、他の野菜と同じように生で売られている
ホワイトアスパラガスは、元々海外に輸出するために作られているので日持ちするように缶詰になっている
●日本で初めて作られたアスパラガスは、ホワイトアスパラ
1924年(大正13年)に北海道岩内町で日本で最初のアスパラガスの生産が始まった
海外に輸出する缶詰を作るためにホワイトアスパラガスを栽培し始めた
当時、欧米では青臭いグリーンアスパラガスよりも
圧倒的にホワイトアスパラガスの方が人気
1年中食べられるように缶詰が主流だった
その様子を目の当たりにしたのが、岩内町の有力者だった
輸出された岩内町産のホワイトアスパラガスは、
美味しくて品質が良いと欧米で人気に
しかし1970年代になると中国や台湾でホワイトアスパラガスの缶詰が大量生産
安い値段で流通したため、日本の缶詰が売れなくなった
その頃、日本では、海外から入ってきたレタス、トマト、ブロッコリーなど、
栄養価の高い野菜をたくさん食べる緑黄色野菜ブームが起こった
さらにファミレスが次々とオープン
サラダバーが登場したことでサラダを食べる文化が定着した
これまでホワイトアスパラガスを作っていた農家が、
国内で売るためにグリーンアスパラガスを作るようになり、
グリーアスパラガスが日本に定着した

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食べ放題のことを外国ではビュッフェとしか言わない
日本では、ビュッフェに加え、バイキングとも言う
バイキングは、日本で誕生し、日本でしか使われていない言葉
 
日本で初めて食べ放題のスタイルを導入し、バイキングと名付けたのは、帝国ホテル
当時、帝国ホテルでは新館の建設が計画され、
目玉となるレストランの構想が練られていた
そのヒントを探るため、ヨーロッパを視察していたのが、11代目料理長 村上信夫
そんな中、途中立ち寄った北欧のデンマークで目にしたのが、
当時日本になかった好きな料理を選んで好きなだけ食べられるスタイル
日本に帰国後、日本で初めてとなる好きな料理を選んで食べるレストランをオープン
 
その店の名前が、インペリアルバイキング
帝国を意味するインペリアルとカーク・ダグラス主演の映画「バイキング」の海賊がガツガツ食べる豪快なイメージを組み合わせた
インペリアルバイキングは、もりそば30円だった時代に、
ランチ1200円の設定だったが、
巨人の長嶋茂雄やプロレスラーの力道山などの大スターが通ったことで、
連日行列ができるほど大人気店に
その人気にあやかって、好きな料理を選んで食べるレストランが、
バイキングを名乗り、日本全国に続々とオープンし、バイキングが定着した

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板チョコには、四角く区切られた溝がある
この溝は、食べやすいサイズに割るためだけにつけられたものではない
 
●板チョコに溝をつけたワケ
 
明治カカオ開発部:藤原成一氏によると
溝をつけたのは、チョコレートを早く固めるため
板チョコは、液体状のチョコレートを型に流し込み、冷やして固める
溝がなく平面だと中心まで固めるのに時間がかかる
溝を入れると表面積が多くなり、均等が早く固まる

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武闘派として恐れられた独眼竜 伊達政宗
その一方で茶道や脳にも精通していた
さらに料理通の正宗は、トイレ付きの小部屋で毎日
朝夕2時間、トイレに籠り、その日の献立を考えるのが日課だった
正宗自ら炊事場に立ち、料理を作ることもあったという
 
1628年、徳川秀忠を招いた時、
この日のために献立や料理法を練りに練っていた伊達政宗は、
料理を作り、盛りつけ、配膳まで藩主である正宗が一人で行った
 
●現代に伝わる豪勢なおせち料理は、伊達政宗が作った
元日料理とは、現在のおせち料理
当時は、雑煮と数品を膳にした質素なモノだった
これに納得していなかった正宗は、現在の豪勢なおせち料理に変えた
現在では珍しい白鳥や貴重なクジラの肉も使っていた
その献立が、現在の一般家庭に伝わるおせち料理の原型と言われている
 
●ずんだ餅は、伊達政宗が考案した
先代を代表する銘菓 ずんだ餅
一説では、伊達政宗が戦に使う陣太刀で枝豆をすり潰したことから、
「じんだ」転じて「ずんだ」になったと言われている
 
●伊達政宗は、眼帯をつけていない
正宗が眼帯をつけている姿を初めて描いたのは、1942年の映画「独眼竜政宗」
この映画から伊達政宗のトレードマークが、眼帯になった

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●みたらし団子は、鎌倉時代に京都で誕生した
京都の下鴨神社にある御手洗池は、
古来より池の水で手や足を洗うと無病息災のご利益がある神聖な池とされる
御手洗池の地下からは水が湧いており、たまに泡が湧き出てくる
それを見ることができるととても縁起が良いとされていた
鎌倉時代、醍醐天皇が御手洗池で手を清めていると、泡が湧き出てきた
一つ見るだけで縁起が良いとされる泡が、さらに4つ続けざまに湧き出、
合わせて5つの泡が出てきた
古来より下鴨神社は神へのお供え物として団子を奉納していた
元々は、串に刺していない一つ一つの状態だったが、
この縁起が良い出来事にあやかりたいと
5個を串に刺した状態でお供えするようになった
その後、5個刺しの団子を境内の茶店で売るようになった
 
江戸時代、京都で誕生したみたらし団子は、
江戸にも伝わり、庶民に大人気になっていた
その値段は、1串5個で5文、みな一文銭 5枚を出して買っていた
1768年、四文銭が登場
一文銭4枚分の四文銭は、持ち運びに便利だと瞬く間に広がり、
多くの食べ物屋が四文銭1枚で支払えるように
商品を4文で売り出すようになった
みたらし団子も4文で売るようにと要望が続出
1串5個の団子を5文で売っていたみたらし団子を、
損をしないように4個4文で売るようになり、それが定着した
 
●花見団子を作ったのは、豊臣秀吉
1598年、天下を取った秀吉は、
京都の醍醐寺で1300人を招待する大規模な花見を計画
その花見の目玉として考えたのが、誰も見たことがない団子
当時、団子と言えば5個刺しのみたらし団子が主流
秀吉が考えたのは、日本の四季を表現した色鮮やかな三色団子
上から、桜をイメージした春、雪の降る冬、葉が生い茂る夏を表している
秋を抜いたのには、2つの理由があった
食べ飽きない、商いが繁盛するようにと願いを込めて、秋無い
秀吉が作った花見団子は、人気となり日本全国に広まった

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