伝統/慣習」カテゴリーアーカイブ

宮島の正式名称は、厳島
●厳島が宮島と呼ばれているワケ
厳島には、25もの神社がある
江戸時代にお宮のある島、宮島と呼ばれるようになり、
時代と共に、その通称の方が広まった
 
●厳島神社の社殿や鳥居が海に建てられたのは、島が 神の島だから
厳島には、神が斎(いつく)島という意味があり、
島に建物は恐れ多いと、海上に建てられた
そのため現在も厳島には、墓がない
かつては出産も認められていなかった
 
●宮島のお土産屋で、しゃもじが大量に売っているワケ
しゃもじの発祥は、宮島
江戸時代に修行僧が、産業がなかった宮島のために
弁財天の持つ琵琶に似たご神木を売り出したのが始まり

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仕事終わりの挨拶は、「お疲れさまでした」が普通だが、
●埼玉県の秩父では、仕事終わりに「お世話になりました」と言う
朝の挨拶は「お世話になります」
さらに乾杯の時にも「お世話になります」を使う人も
仕事を辞める時は、「長い事お世話になりました」
 
●埼玉県の秩父にホルモン焼き屋が乱立している
秩父には、ホルモン焼き屋が20店舗以上もある
秩父駅周辺では、コンビニよりもホルモン焼き屋の方が多い
秩父人は、ホルモン焼きのために丸い七輪を持っている
 
秩父では元々 養豚場が多く、
新鮮なホルモンを安く仕入れやすかったため広まっていった

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●舞妓と芸妓の違い
舞妓は、芸妓になるための見習いの身
中学卒業してから仕込みとして1年修業し、舞妓デビュー
踊りや三味線など様々な芸事を習得し、
体つきや雰囲気が大人の女性になったと認められると芸妓になることができる
 
15歳から20歳の仕込みと舞妓は、親元を離れ、置屋で共同生活
舞妓が寝泊まりする大部屋は、2段ベッドでぎっしり
日本髪を結ったら1週間 髪が洗えない
寝るときは、日本髪が崩れないように高枕を使って横向きで寝ている
そのイメージにそぐわないコンビニ、ファミレス、映画館、カラオケなどに行くことが禁止されている
 
舞妓は常に着物を着て日本髪を結っているが、
一人前の芸妓は仕事以外の日は服装と髪型は自由
 
芸妓になると置屋を出て一人暮らしすることが許される
また芸妓は、地毛で日本髪を結わずにカツラを使っている
 
●舞妓は踊りを舞うから舞妓、芸妓は三味線などの芸を披露するから芸妓
客前で半人前の舞妓が踊り以外を披露することはない
 
●舞妓や芸妓が、おしろいを塗るワケ
昔は照明がなく暗かった
暗い部屋でも顔がはっきりと見えるようにおしろいを塗っている

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茶柱が立つと良いことが起きると言われているが、
●茶柱と縁起は、関係ない
 
日本茶普及協会 大森正司氏によると
茶柱は、静岡のお茶の商人が、
お茶の売れ残りを無くすために広めたと言われている
 
摘み立ての高級一番茶は、宣伝しなくても売れる
しかし茎が混じる二番茶や三番茶は、売れ行きが悪かった
そこで静岡のお茶商人が、売れ残りを無くそうと
「茶柱が立つのは吉兆」と触れ回ったのが、
茶柱が立つ=縁起が良いのきっかけ

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日本では亡くなった人の頭を北に向けて寝かせるのが一般的
●北枕は不吉の迷信は、勘違い
 
遺体を北枕で寝かせる、北枕=死を連想すると日本人は北枕を忌み嫌ってきた
 
しかし、そもそも北枕は、仏教では縁起が良いモノ
2500年前、お釈迦様は北向きに寝かせてくれと弟子に伝え、息を引き取った
仏教発祥の地 インドでは、北の方角には神々が宿る理想の国があると信じられ、
北向きで寝るのが良いとされている
そのためわざとベッドを北向きにしているホテルもある
全国にある涅槃仏もほとんどがこの話をなぞらえ頭は北向き
 
故人を北枕で寝かせるのは、お釈迦様と同じ方角を向き成仏してもらうため
しかし日本人は、本来の意味を忘れ、
死者=北枕、北枕=不吉というイメージが定着した
忌引きなど喪に服す習慣のある日本人は、死の汚れを伝染するものと考えている

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●夜に爪を切ると親の死に目に会えない、の迷信が生まれたワケ
 
この迷信が生まれたのは、
昔は、現代のように照明がたくさん無く夜は暗かった
夜に爪を切るのは、命にかかわりかねない危険なことだった
 
現代の爪切りの形は、大正時代に外国から入ってきた
江戸時代は和ばさみ、その前は小柄という小型ナイフを使っていた
 
親の死に目に会えないとは、親の死に際に立ち会えないという事ではなく
自分が先に死んでしまうので、親の死を看取ることができないということ
医療が今の時代ほど発達していなかった時代、
切り傷は感染病にかかり亡くなる可能性があった
 
戦後まで猛威を振るった破傷風は、致死率80%以上
親より先に死んでしまうという警鐘の意味を込めた迷信

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●こどもの日は、母に感謝する日
国民の祝日に関する法律 第二条によると
こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、
母に感謝する、と記されている
 
ちなみに5月第2日曜の母の日は、アメリカから入ってきた風習
 
●端午の節句とは?
昔の日本は、日付を干支で表していた
節句とは、季節の節目となる日
なので端午の節句とは、最初の午の季節の節目の日
奈良時代から続いている風習で、江戸時代は祝日をなっていた
5月5日は、季節の節目を祝う日なので今でも こどもの日を端午の節句とも言う
3月3日の雛祭りや7月7日の七夕も節句の一つ
 
●子供の日に鯉をあげるワケ
急流を登りきると龍になるという中国の伝説から鯉は出世の象徴
子供の成長と出世を願って鯉をあげる
 
鯉のぼりの上についている回転球と矢車
回転球は、神様を呼ぶ目印
矢車は、魔除け
鯉のぼりとは、神様に ここに男の子がいますとアピールするためのもの
 
5色の吹き流しは、陰陽五行説で万物を表している
 
江戸時代、武家の家では家紋入りののぼりをあげて子供を祝っていた
しかし町人には、それが許されなかったため、
代わりに鯉のぼりをあげたのが鯉のぼりのはじまり

(96)

客を呼び込むために店の前に盛り塩を置く風習は、
2200年前、秦の始皇帝の逸話が関係している
 
一代で中国大陸を統一した始皇帝は強大な権力を持っていた
始皇帝が住む都 咸陽には、
始皇帝の身の回りのお世話係として3000人もの女性が住んでいた
始皇帝は空いた時間があると女性たちの家を牛車に乗って訪ねていた
女性たちは始皇帝に来てもらうために服を着飾ったり
楽器を弾いたりして必死にアピールしていた
そんな中、なかなか始皇帝に来てもらえない女性が、
牛の大好物の塩を家の前に置いた
牛は塩を舐めるのに夢中になって動かず、始皇帝は目の前の家に訪ねて来た
 
その後、盛り塩を置くことで
これまで来てくれなかった始皇帝が来てくれたという逸話が
中国全土に広まり、それがいつしか店の前に盛り塩を置くことで、
これまで来なかった客が来てくれると言われるようになった
 
奈良時代に日本に伝わり、現在でも客を呼び込みたい店では盛り塩を置いている

(272)

●干支は、全部で60種類ある
干支は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類だけではない
これは昔の中国で暦や時間などに使用していた十二支
もう一つ、十二支を合わせることで細かい日付を表していたのが、十干
十干の「干」と十二支の「支」を合わせて、干支と呼んでいる
実は干支は、60種類ある
 
1868年に起きた戊辰戦争は、十干の戊と十二支の辰の年にあったため、
この名がついた
 
1924年(大正13年)、十干の甲と十二支の子の甲子に完成したのが、甲子園
 
また十干の丙と十二支の午の丙午
丙午生まれの女性は、気性が激しく夫の命を縮めると江戸時代から言われてきた
この迷信は、昭和の時代でも信じられ、
丙午の昭和41年だけが、出生率が25%も激減した
 
60年で干支が一巡し、元も還暦に戻るため、60歳を迎えると還暦となる
還暦になると赤ちゃんに戻るという意味で赤いちゃんちゃんこを着る

(506)

●初夢とは、元旦の夜に見る夢、または正月2日の夜に見る夢
夢の内容から1年の吉凶を占う日本古来の風習
縁起が良いと言われている初夢が、一富士、二鷹、三茄子
 
●一富士、二鷹、三茄子には続きがある
続きは、四扇、五煙草
扇は、ひっくり返すと富士山のような末広がりになる
煙が上昇する煙草は、運気が上がると言われている
 
●お年玉は、そもそもお金ではなく餅だった
お年玉の「年」は、年神様の「年」、
「玉」は「たましい」の「玉」
年神様の魂をいただく御年魂→御年玉と変化していった
そもそもは家長が、家族などに餅玉を分け与えていたのがはじまり
お年玉を頂くことでさらに一年 生きる力をいただける意味がある
江戸時代頃から徐々にお金に変わっていった

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