Tag Archives: 江戸時代

江戸川大学:斗鬼正一教授によると
●たこ揚げは、元々タコではなくイカだった
凧揚げは、5~6世紀ごろ、中国で誕生した
当時は、遊びではなく遠くの味方に合図を送るため戦に使われていた
敵に悟られないように鳥に似せて鳶の形をしていた
紙に鳶と書いて紙鳶と呼ばれていた
最初は戦に使われていたが、次第に中国の貴族の遊びとして定着
平安時代に日本に伝わり、日本の貴族の間でも流行
江戸時代に入ると庶民にも紙鳶が広がり、一大ブームとなる
四角形に長い足がついている姿が、イカに似ていることから
紙鳶は、いかのぼりと呼ばれるように
 
ブームとなると、いかのぼりが原因で喧嘩が頻発
さらに 落ちたいかのぼりに当たり、けが人や死者が出た
さらには大名行列に落ちて大事件になったりと当時の社会問題になった
1646年、幕府はついに いかのぼり禁止令を出した
それでも庶民のいかのぼり熱は冷めず、
いかのぼりの呼び方を、たこのぼりに変えて禁止令を無視して続けた
1656年、幕府は たこのぼり禁止令を出すが、一部の庶民は禁止令を無視
以来、いかのぼりは、たこのぼりで定着
たこのぼりを揚げることから、たこ揚げという呼び方に変わった

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●江戸時代、士農工商という身分制度はなかった
 
そもそも江戸時代の身分は、支配階級の武士と、
商人や農民などの武士以外の身分しかなかった
 
明治時代になり、全ての人々が平等だと強調するために
明治政府は、江戸時代は職業で差別された士農工商という身分制度があったとした
 
元々 士農工商という言葉は、3000年前の中国の言葉で
あらゆる職業をさす国民という意味だった

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悪法として知られる徳川綱吉の生類憐れみの令は、人々を苦しめたと伝えられてきた
コオロギや鈴虫を打った商人は投獄、
自宅の井戸に猫が落ちて死んだという罪で島流し、
蚊が止まった顔を叩いただけで島流しなど、本当の出来事として伝えられた
 
しかし近年、長野県の農村で発見された文書から生類憐みの令の本来の姿が見えてきた
そこには、幼少で親を亡くした子供は、
兄弟や親類縁者が責任をもって養育すべし、と書かれていた
綱吉は、捨て子を禁止したり、子供を殺してはいけない、
行き倒れた人を助けなければいけない、など社会福祉に重きを置いていた
 
●天下の悪法として知られる徳川綱吉の生類憐みの令の本来の姿
綱吉は、他人を思いやるなど人間性を重要視し、
家族や社会との絆を尊ぶ儒教の教えを大切にしていた
 
綱吉は、人の命を大切にするため武士に与えられていた特権 切り捨て御免を否定した
綱吉が儒教を世に広めたことで現在の平和的な日本人の気質を作った
 
その綱吉の考えをもとに生まれた風習が、現在でも残っている
家族との絆を大切にするために先祖と同じ墓に入る
江戸時代初期は、人が死ぬと個人個人で埋葬されていたが、
先祖と同じ墓に入るようになり、これが現在の「お墓参り」につながっていく
子供を大切に考える綱吉は、子供の成長の節目を祝う風習「七五三」も生んだ
綱吉が制定した服忌令という法律が元となって生まれた「忌引き」
野犬の横行と狂犬病を防ぐために中野の広大な犬屋敷に犬を集めた
 
多くの庶民が処罰されたと伝えられてきたが、実際に処罰されたのは、
著しく命を粗末にした武士を中心に70名ほどだったとのちの研究で分かった
 
●綱吉の生類憐みの令が悪法とされたのは、甥の家宣が原因
綱吉が死んで将軍を継いだのは、甥の家宣
綱吉と家宣には、生前から確執があった
そのため家宣は綱吉が行った数々の政策を批判、
さらに生類憐みの令を悪法と断じて廃止した
これがきっかけで名君であった綱吉のイメージは、反転する
 
ヨーロッパで初めて日本を詳しく紹介したドイツ人医師のケンペルは、綱吉を下記のように記している
非常に英邁な君主であるという印象を受けた
彼のもとで全国民が完全に調和して生活している
生活習慣や芸術、道徳の面であらゆる国の人々を凌駕している

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●「のし」の誕生
奈良時代、人々は天皇に農作物や特産品を献上していた
海の近くに住んだいた人々は、あわびを献上品に
しかし生あわびは腐りやすいので、干物にすることに
干物にするには時間がかかってしまう
より早く乾かすためにあわびを細長く切り、
熱した鉄で薄く延ばすようになった
当時、伸ばすことを「熨す(のす)」と
言っていたので、熨しあわびと呼んでいた
熨しあわびは天皇に献上するほど貴重な物ということから、
いつしか相手への敬意を表す意味を持ち、
贈り物に添えて相手に渡すようになった
 
江戸時代には、より相手への敬意を表すために
干しあわびにきれいに紙で装飾するようになり、
だんだん豪華な装飾を施したモノに進化した
 
昭和になり戦後の物不足の影響と本物のあわびが高価だということから
次第に贈り物には印刷した熨しあわびをつけるようになった
 
●お葬式のお供え物や香典返しに「のし」をつけないワケ
贈り物に「のし」をつけるのは、
めでたい時と思いがちだが、本来は相手を敬うため
なので誕生日、結婚、出産、還暦、
謝罪などの贈り物をする際は、「のし」をつける
だが、お葬式のお供え物や香典返しには「のし」をつけてはいけない
お葬式では、仏教の教えで動物を殺生したモノを食べたり出してはいけない
「のし」は元々あわびを殺生して作られていたため
お葬式のお供え物や香典返しにそぐわない

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現在では湯舟と浴槽は、同じ意味だが、元々は全く違うモノだった
 
浴槽が登場するのは、平安時代
浴槽とは、入るためではなく、
体を清めるために水やお湯を溜めた木の容器のことだった
 
庶民が浴槽に浸かるようになったのは江戸時代の中期
水路の整備を進み、庶民が自由に水を使えるようになった
そこで造られたのが、現在のようにお湯に浸かる銭湯
お湯に浸かる容器は、浴槽と呼ばれていた
 
●元々 湯舟とは、お湯を運ぶ舟
当時、大人気の銭湯は、江戸の中心部に集中
郊外で暮らす庶民は、中々銭湯に行けなかった
そこで郊外で暮らす庶民向けに移動式の銭湯が誕生
それは浴槽を乗せた船
船の上で庶民は火を焚いて温められたお湯に浸かっていた
お湯を運ぶ舟が「湯舟」
人気を誇った湯舟だったが、次第に郊外にも銭湯が造られるようになり
湯舟を利用する人が減り、100年ほどで姿を消した
郊外に住む人にとっては浴槽に浸かる=湯舟だったため、
湯舟という言葉だけが残り、
次第に浴槽と湯舟が同じ意味として使われるようになった

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●生そばの「生」とは、生粋の「生」
生そばとは、小麦粉などのつなぎを
一切使わないそば粉100%で打ったそば
混じりっ気のない生粋のそばという意味
そば粉8割に対して、小麦粉2割を混ぜて作るそばを、二八そば
 
しかし、
●のれんに生そばと書いている店でも、ほとんどが二八そばを提供している
飲食店が出されるようになった江戸時代、
そば屋は大変評判となった
当時のそばは、つなぎを使わないそば粉100%のそばだった
しかし、そば粉だけで作ったそばは、打ちづらく茹でると切れやすい
そこで小麦粉2割を混ぜた二八そばが考案され、
二八そばののれんを出す店が増えた
一方、そば粉100%のそばを提供する店は、
二八そばと区別するために生そばと名乗るようになった
そば粉100%の生そばの方が、
二八そばより風味がよく味も良く、評判となり江戸で繁盛した
そのため、生そばののれんの方が、格上の印象となり、
江戸後期になると、二八そばの店も生そばののれんを出すようになった

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大相撲では最終日を千秋楽と書くが、歌舞伎では最終日を千穐楽と書く
歌舞伎で最終日を千穐楽をと書くようになったのは、江戸時代から
元々は、大相撲と同じ、千秋楽を書いていた
 
江戸時代の芝居小屋は、木造の建物だったため火事の被害が多かった
1682年、天和の大火では、有名な芝居小屋が火災に巻き込まれるなど
芝居小屋にとって火事は深刻な問題だった
 
秋には、火が含まれている
火が火事を連想させるため使われなり、縁起の良い亀が用いられた

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●お会計とおあいその違い
おあいそは、本来 店員から店員に使う言葉
客が「おあいそ」と店員に言うのは間違い
「おあいそ」とは「お愛想」のこと
江戸時代、芸者がいる料亭で使われていた言葉
客が帰る際に、芸者がその料亭の女将に
「最後にお客さんに挨拶して愛想をふってください」
という意味で「おあいそお願いします」と使っていた
「おあいそ」は店員から店員に使う言葉
その女将が、おあいそをするときにお会計も一緒にするので
いつしか「おあいそ」が「お会計」という意味になった
 
●あがり
あがりも芸者がいる料亭で使われていた言葉
声がかかった芸者が、お茶を持ってお座敷にあがることから
声がかかった人のことを「おあがりさん」と呼ばれるように
その後、お茶自体のことを「あがり」と呼ぶようになり
それを聞いた客もお茶を「あがり」と言うようになった

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五目寿司は、江戸時代初期に備前岡山藩 藩主 池田光政が、
一汁一菜令を出したのが、始まり
それは、食事は一食につき白米などの主食、
汁物一品、おかず一品にしなければならないという倹約令
しかし満足できな庶民は、煮椎茸、かんぴょう、ニンジンを
目立たないように刻んでご飯に混ぜて食べるように
それが岡山名物 ばら寿司となる
その後、全国に広がり、いろんな具材を酢飯に混ぜ、
たくさんという意味の五目寿司と呼ばれるようになった
 
ちらし寿司は、江戸時代後期に寿司屋の職人が
魚の切れ端や使わない部分を酢飯の上に乗せて、
まかないとして食べたのが始まり

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尻尾が真っすぐな猫が多い関西に比べて、
関東では尻尾が曲がっている猫が多い
 
●関西より関東に尻曲がり猫が多い理由
 
江戸時代、庶民に可愛がられていた猫
そのころの猫は、尻尾が真っすぐだった
 
しかし化け猫の噂が広がり嫌われることに
それは尻尾が真っすぐな猫は年をとると
尻尾が二股に分かれて化け猫になる、という噂
佐賀で実際に起きた史実を
基にした怪談「鍋島化け猫騒動(1670年)」
主人の無念を背負い化け猫となったその姿を恐れた江戸の人々は、
尻尾の真っすぐな猫に尻尾を捨てたり、
ちょん切ったりと ひどい仕打ちをしたという
 
そのうち江戸の町から真っすぐな尻尾の猫がいなくなってしまう
 
日本にはいなかった尾曲がり猫は、長崎の出島から入って来た
猫を船に乗せないと航海の保険が下りない
運搬する生糸や砂糖を食べるネズミを退治する役目を担っていた
オランダ船は統治していたジャカルタで生糸と砂糖を積み、
ジャカルタの猫を乗せて、長崎の出島に
尾曲がり猫は、ジャカルタ生まれ
 
このころ、珍しい動物を江戸に持っていって売る動物商がいた
今、江戸の町では尻尾の真っすぐな猫が嫌われている
江戸で尾曲がり猫を売れば儲かると尾曲がり猫を大量に江戸で売り始めた

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