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オーケストラの指揮者の象徴 指揮棒
実は、17世紀の頃は、長い長い金属の棒が使われており、
床を叩いてリズムをとっていた
しかしフランスのある作曲家が、誤って自分の足を刺してしまい
その傷が原因となり死亡してしまったことから、現在の短い棒に変わった
 
●ベートーヴェン 交響曲第9番の呪い
歴史に名を遺す世界を代表する音楽家たちが
交響曲第9番を発表したのちに次々と死亡している
シューベルトも交響曲第9番を発表後に死亡
ブルックナーも交響曲第9番を発表後に死亡
ドボルザークも交響曲第9番を発表後に死亡
人々は、これをベートーヴェンの呪いと呼び、恐れた
このジンクスを打ち破ろうとする作曲家が現れる
オーストリア出身のマーラー
自身の交響曲第8番完成後に作った曲を
第9番と名付けずに大地の歌と名付けた
これで呪いを回避できると思ったのか、その後に作った曲に
本来なら第10番の曲に第9番と名付け、翌年に死亡する

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年末になると日本各地で盛んに演奏されるベートーヴェンの第九だが、
●第九は、決して年末の歌ではない
年末に頻繁に演奏されるのは、日本だけ
海外では、自由と平和の象徴として時期は関係なく
記念行事などの特別な機会に演奏されることが多い
 
1985年6月のEU首脳会議で第九の一部分がEUの歌として承認され、
EUの公式行事にでも演奏されている
1964年10月の東京オリンピックでは、
当時分裂状態だった東西ドイツ合同チームで参加した時、
表彰式で国歌の代わりに第九が使われた
 
第九は、ベートーヴェンの9番目で最後の交響曲
正式がタイトルは、交響曲第9番 ニ短調 作品125 合唱付
ベートーヴェンは、20代後半から耳が聞こえづらくなり、
40歳を過ぎたころには、ほぼ耳が聞こえなくなった
第九を作曲したのは、54歳の時
第九は、耳が全く聞こえない状態で作曲された
 
●大ヒットした第九は、常識を覆す曲
そもそも交響曲は、オーケストラのための音楽で楽器だけで演奏される
しかし第九は、4人の独唱者と合唱団が入っていて、当時の交響曲では異例
さらに交響曲の演奏時間は通常30分程度だが、第九は約70分で異例の長さ
 
●第九=歓喜の歌ではない
第九は、第1楽章から第4楽章まであるが、
第1楽章から第3楽章まではオーケストラ演奏だけ
歓喜の歌は、よく耳にする第4楽章のこと
歓喜の歌の歌詞は、ドイツの詩人シラーの「歓喜に寄せて」の一部を抜粋して並び変えたもの
その内容は、社会の不平等や争いをなくして、全ての人々が平等で自由な世界を
自由、平等、博愛の精神がうたわれている
その冒頭の歌詞は、ベートーヴェンの自作
第1楽章から第3楽章は、なかったことにして、
これから始まる第4楽章こそが本当に伝えたいことだと歌っている
第1楽章から第3楽章は、長いフリ
 
●年末の第九が、日本で定着したワケ
1940年の大晦日、NHK交響楽団の指揮者ローゼンシュトックが、
ラジオで全国放送したのがきっかけで、年末の第九が急速に広まった
 
●CDと第九
CD開発当時、60分記録できる直径11.5㎝、
74分記録できる直径12㎝で意見が分かれていた
そこで演奏時間が約70分の第九が1枚のディスクに記録できたほうが良い
という理由で、約74分記録できる直径12㎝のCDに規格が決まった

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1700年代、フランス、
当時の戦争は、戦力と同じくらい情報戦が大切
ナポレオンは、口頭で指示を出し、
部下が鉛筆で書きとめることで
伝令のスピードを速くし、戦いは連戦連勝、破竹の勢い
すると黒鉛の産出国イギリスから黒鉛の輸出を止められる
黒鉛に硫黄を混ぜてかさ増しを試みたが、ポキポキ折れやすい
 
困ったナポレオンは、折れない芯を作るために
天才科学者二コラ=ジャック・コンテに命じる
気球を使った航空部隊や黒鉛で作る大砲を研究、
後の画材であるコンテもこの人物が語源
コンテは、大砲の弾と同様に黒鉛に
粘土を混ぜて焼き固め、折れない強い芯を作ることに成功
 
粘土を混ぜて焼き固める方法は、
現代でも使われている画期的な製法だった
 
1800年代のドイツでは、
芸術家や貴族に便利な鉛筆は大人気だった
あのベートーヴェンも鉛筆と楽譜を持ち歩き、
何かひらめいた時に、どんな場所でも書けるようにしていた
しかし高価で一般人は買えない
そこで六角形の形や長さを決めて大量生産し、
世界最古の鉛筆メーカー ファーバーカステル社が現代で使われる鉛筆を開発

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●ベートーヴェンはナポレオンのスパイだった
それまでの音楽家は、教会か宮廷の業者でしかなかった
ナポレオンを尊敬していたベートーヴェンは、
宮廷に入るための礼装であるカツラを外し、
自分は民衆のために音楽を作ると音楽家が
アーティストとして確立する革命を起こした
 
1770年、ドイツのボンに生まれる
21歳でオーストリアのウィーンへ
このウィーンに住んでいた頃に、
ベートーヴェンが不審な行動をとっていた証拠が出てきた
・40回にも及ぶ謎の引っ越し
・謎のラブレター
研究者の間では、2つの不可解な点が指摘されている
宛名がなく誰に出そうとしたのか不明
エステルハージという貴族の名前が書かれた一文
当時、ヨーロッパはフランス革命の直後、
市民の革命運動を抑えるため手紙は全て検閲対象だった
ラブレターの中に隠しメッセージを入れることは、
密かに情報を伝えるための有効な方法であった
エステルハージとは、
ナポレオンと激しく対立していた有力な貴族だった
ベートーヴェンは、ナポレオン側の
スパイとして活動していたと考えられている
しかしナポレオンが皇帝になった後、
ベートーヴェンは献呈することを取り消した
 
●民謡を編曲しまくってお金を稼いでいた
レコードもCDもないこの時代、
音楽家たちの収入を支えていたのは、作曲した楽譜の売上
オーケストラ曲は、苦労の割に需要が少ないため金にならない
一方、民謡は、庶民に人気があり、その楽譜が売れる
さらに一から作るより、編曲の方が容易い
稼ぎの良いアルバイトとして民謡を編曲しまくっていた
そしてベートーヴェンは生涯に170曲以上の民謡を編曲した

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