室町時代」タグアーカイブ

●穴子飯が広島県宮島の名物になったワケ
 
穴子が獲れるようになったのは、牡蠣のおかげ
その生産量は、全国1位
牡蠣筏に付着したエビやプランクトンが海底に沈む
それが穴子の餌になり、大量に集まってくる
 
牡蠣の養殖が始まったのは、室町時代
その副産物として穴子も獲れるようになった
 
穴子飯が宮島の名物になったのは、明治31年、
宮島駅で穴子飯の駅弁が発売され、全国に知れ渡った

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現在は、俳優も役者も一般的には同じ意味だが、
そもそもの語源は全く違う
 
●俳優は、奈良時代以前から使われている言葉
奈良時代に完成した日本書紀に俳優は記されている
当時は、「はいゆう」ではなく「わざおぎ」と呼ばれていた
「わざおぎ」とは、神事として魔除けや
豊作を願うために歌や踊りによって神様を喜ばせること
俳優には、現在の意味のような何かを演じるという意味は含まれていなかった
 
●役者は、室町時代から使われるようになった
室町時代以降、能や狂言が誕生し、
役をもらって演じる人を役者と呼ぶようになった
江戸時代になると物語を演じる役者が、
演目の中で歌や踊りも披露するようになったので、
いつしか俳優と役者の意味が混同してしまった

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●「もりそば」と「ざるそば」の違い
海苔が乗っているそばが、ざるそば
海苔が乗っていないそばが、もりそば
 
●ざるそばは、もりそばに海苔を乗せただけ
日本で そばが食べられるようになったのは、室町時代
この時代のそばは、団子状で生や焼いたりして食べていた
現在のそばがきに近い
 
室町時代後期になると平らに伸ばして麺状に切るそばが誕生
つなぎの小麦粉が入っていないので、
すぐ切れるため今のそばよりも太かった
 
江戸時代になると小麦粉をつなぎに入れた二八そばが誕生
当時もそばは、つゆにつけて食べるのが一般的
木の器に盛っていたため、そばを盛る→もりそばと呼ばれるようになった
 
江戸時代中期、現在の江東区深川の伊勢屋という人気のそば屋があった
当時のそばは、お椀に盛られていた
しかしそばについていた水が、お椀の底に溜まり、味を損ねていた
そこで湯切りで使っていた大きなざるを小さくし、それを皿に乗せて提供した
そばがグチャグチャになることが無くなったので
最後まで美味しく食べられるようになった
ざるに盛ることから、ざるそばと名付けられた
伊勢屋のざるそばが人気になると、
ざるそばをメニューに加えるそば屋が続出
 
明治時代、ざるそばを出す店が増えたため、
海苔を乗せて高級感を出し差別化を図った店が登場
当時、海苔の生産量は少なく高価だった
他にもそばつゆにみりんを加えたり、
そばの量を増やすことで差別化を図る店も出てきた
海苔を乗せたざるそばは、物珍しさと香りが合い大人気となる
今では海苔を乗せていていないそばを、もりそば
海苔を乗せて高級感を出したそばを、ざるそばと呼ぶようになった
 
●そばをせいろに盛るようになったワケ
江戸時代末期になると物価の上昇によって、
そば粉の値段も上がり、そば屋の経営が難しくなった
そばの値段を上げるのをためらった店主は、そばの量を減らすことに
江戸幕府は、そば屋の値上げの陳情を却下し、底上げを認めた
この底上げをきっかけに、そばをせいろに盛るようになった

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江戸川大学:斗鬼正一 教授によると
台所とお勝手は、今でこそ料理をする場所という意味で使われているが、元々、別の意味だった
 
●元々 台所は、料理を盛りつけする場所だった
日本では奈良時代から火を使って調理する場所を「くりや」と呼んでいた
そして中国から、調理をするという意味の「厨」という漢字が入ってきた時に、「くりや」に「厨」の漢字をあてた
平安時代の貴族の屋敷、厨(くりや)で作られた料理は、盛りつけをする台盤所に運んでいた
貴族が使っていた足つきのお膳を台盤と呼び、台盤を並べて盛りつけする場所を台盤所と呼ぶようになった
次第に、台盤所を略して、台所と呼ぶようになった
元々、台所とは、料理を盛りつける場所のことだった
そして台所を仕切る主人の妻のことを丁寧な意味になる「御」をつけて「御台所(みだいどころ)」と呼ぶようになった
室町時代になると厨から台所まで料理を運ぶ手間を省くため、同じ建物の中に造られるようになった
その場所全体を台所と呼ぶようになった
 
●元々 お勝手は、使用人が自由にできる台所のことだった
室町時代になると男性の権力がより強くなり、男社会が色濃くなった
使用人の女性は屋敷の中では自由にできない風潮になっていった
しかし台所だけは使用人の女性が食事をしたり談笑したり男の目を気にせず、唯一自由にできる場所だった
使用人の女性にとって台所は、勝手がきく場所だったため、丁寧語の「お」をつけて「お勝手」と呼ぶようになった
今でも台所にある小さな出入り口を勝手口と呼ぶが、使用人の女性たちが勝手に外に行き来できる出入り口だったので勝手口と呼ぶように

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●飯(めし)の語源は、召し上がる
室町時代、白いお米はとても貴重だったため、
庶民は白米に粟や麦など様々な具材を混ぜてかさ増しして食べていた
「召し上がる」から「めし」と呼んでいた
 
●ご飯は、白米100%の炊きたて
一方、身分の高い貴族は、炊きたての白米を食べていた
貴族は、白米100%の炊きたてを「ご飯」と呼んでいた
中国から白米を表す「飯(はん)」という漢字が入って来て、
白米100%の炊き立ての米は貴重なので
「御」をつけて「御飯」と呼ぶようになった
 
白米100%の炊きたてのご飯に庶民は強い憧れを持ち、
一気に広まっていった
 
室町時代以降は、炊き立ての白米を「ご飯」
それ以外の米料理を「飯」と使い分けるようになった

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600年以上 ういろうを作り続ける外郎家
小田原にあるういろう本店は、
多数の棟を配置し屋根を重ねる八棟造り
現在の店舗は、平成に改築されたものだが、
500年前から外郎家は代々八棟造りを守っている
 
室町時代 三代将軍の足利義満の下、幕府に仕えていた外郎家
海外の使節団が日本にやってきた際、
外交を担当していた外郎家の2代目が、
もてなし菓子として作ったのが、ういろうの始まり
当時は、高価な栄養剤だった黒糖と米粉を合わせて蒸したお菓子
現在も無論地時代と同じ製法で造られている
 
●歌舞伎演目 外郎売
外郎家の家伝薬で二代目 市川團十郎の喉の病が治り、
小田原まで尋ねて来た
この薬を歌舞伎の演目として創作してはどうかと、
十三代目の外郎家当主に掛け合ったが、「宣伝は困る」と一度は断った
「正しい薬を服用してもらう必要がある」と説得され、創作を許可した
こうして歌舞伎演目「外郎売」は、二代目 市川團十郎に創作される
現在も外郎売を演じる時には、市川家は代々外郎家に挨拶に来る
 
薬によって喉の病から回復し活舌が良くなったことから、
外郎売には早口言葉が多く盛り込まれている

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