徳川家光」タグアーカイブ

昔は目上の人の前で正座の習慣はなく、あぐらで座るのが一般的だった
●目上の人の前は、正座が正しい座り方と決めたのは、徳川家光
1635年、徳川家光は、参勤交代と天下普請を発令
全国の諸大名に謀反を起こす財力を蓄えさせないための政策を行った
その心配は、身近な家臣まで疑うようになる
 
家光は、家臣にあぐらではなく危座をするように命令する
危座とは、当時の罪人たちの座り方で、現在の正座と同じ
長時間 座らせて苦痛を与え、罪を白状させるための座り方だった
家光は、幼い頃、春日局に叱られたときに危座をさせられ、
足がしびれて上手く立ち上がれなかったことを思い出す
 
家光は、家臣の足をしびれさせて自分を襲えないようにするため、
危座を正しい座り方にした
表向きは、正座の方が、あぐらよりも背筋が伸びて
美しく見えるという理由で正しい座り方を正座と決めた
 
家光の前で危座をするのが当たり前になると
次第に武士たちは目上の人にも危座をするようになった
 
危座が、正座と改められたのは、明治時代
危座は印象が悪いということで、
正しい座り方、正座と呼ぶようになった
その後、正座は学校教育にも取り入れられ、
目上の人の前では正座をするのが一般的となった

(462)

スポンサード リンク
●玉の輿の語源となった桂昌院の人生
桂昌院の名前が「お玉さん」だったという説があり、
そのお玉さんが輿に乗って江戸に向かったことから
玉の輿の語源となったと言われている
 
桂昌院は、京都の八百屋の娘として生まれた
下級武士だった本庄家から養女の誘いを受ける
元々は、父親が本庄家に野菜を納めていたことがきっかけだった
 
本庄家の養女となった桂昌院は、
公家出身の尼僧:お万の方の侍女として仕えることに
その後、尼僧は将軍の徳川家光に御目通りを願って挨拶をした
すると家光が一目惚れ、尼僧は側室になった
侍女だった桂昌院も身の回りの世話をするため
一緒に大奥に入ることに
 
すると桂昌院も家光に気に入られ、側室に
7年後、綱吉を産み、5代将軍となった

(422)

スポンサード リンク