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本州と九州を隔てる関門海峡に浮かぶ舟島(巌流島)
1612年、29歳の宮本武蔵と
細川藩剣術指南役、18歳の佐々木小次郎の決闘が行われた
 
定説によれば、
通常 刀の二尺四寸(70㎝)だが、
小次郎の刀は三尺(約90㎝)の長刀
長い刀を操り、必殺技 燕返しで相対した
武蔵は心理戦に持ち込み、
わざと遅れて島に到着、小次郎を苛立たせた
そして船の櫓を削った木刀を振り落とし、絶命させた
 
●武蔵は遅れず、小次郎よりも長い刀を用いて勝利した、という説がある
細川家にまつわる資料が展示されている八代市立博物館
そこには、小次郎を倒した木刀を武蔵自身が再現した木刀が保管されている
細川家 家老 松井寄之が「佐々木小次郎と決闘した時の木刀はどんな形をしていたか?」と武蔵に聞くと、武蔵は即座に作りましょうと、自分で削った渡した木刀と伝えられている
その長さは、四尺、127㎝
武蔵は、小次郎よりも40㎝も長い刀を使っていたことになる
武蔵の戦歴を息子 伊織が残した小倉碑文には、“両雄同時に相会し”と記されている
この石碑は、武蔵の死後ほどなくして建てられている
 
●巌流島の決闘の真相
さらに近年の研究で巌流島の決闘の真相が分かってきた
武蔵が晩年に身を寄せた細川家 家老 沼田延元の功績を記した書、 巌流島の決闘から60年後に書かれた「沼田家記」には、巌流島の決闘にふれた記述がある
 
“1対1の約束だったが、武蔵の弟子がひそかに島に来ていた。武蔵の一撃で小次郎は倒れるが、死に至らず、ほどなく息を吹き返した小次郎を武蔵の弟子たちが撲殺した”定説とされる吉川英治の宮本武蔵の元となった「二天記」が
巌流島の決闘から120年後に書かれている
それよりも早い沼田家記の方が、信憑性があるのではと考えられている

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