田中角栄」タグアーカイブ

1928年、新潟県刈羽郡に6人兄妹の末っ子として誕生
早くして身寄りを亡くした彼女は、17歳の時 同郷の男性と婚約
田中角栄と出会ったのは、角栄27歳、昭17歳の時
建設会社の社長だった角栄が、新潟2区から衆議院選に立候補するため
弁論部だった昭の婚約者の力を借りるためにやって来た
角栄に対する昭の第一印象は、年齢の割に老けた男性という印象しなかった
一方、角栄は、昭に一目惚れした
この時の選挙で落選したものの翌年 1947年、第23回 総選挙に当選
昭も夫と共に新潟から上京し、都内で電気工務店を開業
仕事は、角栄が代表を務めていた田中土建工業の下請けがほとんどで、よく角栄も会社に顔を出していた
そして帰りがけに決まって「奥さん いつまでも苦労はさせないからね」と言ったという
1951年、昭の夫の会社が倒産
夫は会社の再建に汗を流すこともなく酒浸りとなり、夫婦の間に深い亀裂が入っていた
結婚生活5年目、昭は離婚を決意した
離婚を噂を聞きつけた角栄は、昭の下に駆け付けた
「君 わしの秘書として働いてみるつもりはないか?」
昭は角栄の誘いに了承した
1952年12月1日、昭は初めて永田町にある第一議員会館に顔を出した
すでにこの時、角栄と昭は愛人関係になっていたという
最初に昭に与えられた仕事は、1万枚の年賀状のあて名書き
昭は2週間で書き終えた
角栄は、褒める代わりに次々に仕事を与えた
秘書になって数か月、昭は、角栄の期待に応えるように驚くべき能力を発揮する
「おい!あそこへ電話せい!」
せっかちな角栄は、誰に何の用件でかけるか詳しく言わなかった
しかし昭は「わかりました」
角栄のあそこの一言で即座に電話をかけられるようになっていた
 
角栄は昭を「君ほどの利口な女は初めてである」と評している
桁外れの判断力と実行力で、コンピューター付きブルドーザーと呼ばれた角栄にこう言わしめた昭
1953年、史上最強の後援会と呼ばれる組織 越山会が発足
角栄の後援会である政治団体で、その会員数は、最も多い時で約9万人
越山会にあらずんば人にあらず、と言われるほど選挙に滅法強く圧倒的な地盤を誇った
この巨大組織の金庫番で100億以上の資金を動かしていたのが、
角栄が会計責任者に任命した昭だった
 
のちに昭は、越山会の女王として政界に強い影響力を持つこととなる
出会いから約11年 1957年7月、昭は長女あつ子を出産
昭は、角栄に対して子供の認知を求めなかった
 
昭という最強の右腕を手に入れた角栄は政界を登り詰めていく
初当選から2年で、26の法律を作り、1957年、39歳の時に最年少で郵政大臣に就任
ついに昭は、第一秘書に登り詰めた
角栄はさらに仕事に邁進していく
それまでの郵政大臣が4年かけて手を付けられなかったテレビ放送の免許問題をたった2日で解決
現在の民間放送の原型をキー局、ネット局体制を完成させた
法案成立のため六法全書を丸暗記するほど努力を惜しまなかった
 
この頃から角栄の判断が必要な案件も、昭に判断を任せられるようになる
角栄は昭の仕事ぶりを「俺には代議士になる秘書はいらない。必要なのは実印を任せられる秘書だ」と評している
昭は、角栄を総理にするため、角栄に会いたいという人がいれば、
角栄の敵と思われる人も出合わせた
さらに有望な若手議員と角栄との窓口役にもなっていた
小沢一郎や橋本龍太郎など有望な人材は、積極的に角栄に合わせていた
昭は、角栄の金を握り、スケジュールを動かし、唯一意見できる存在にまでなっていた
1961年、43歳の時、自民党 政調会長に就任
1962年、大蔵大臣に就任
1968年、51歳の時に、2度目の自民党 幹事長に就任
この頃、昭は、角栄の総理就任後のことまで考え、ある提案をする
「総裁の任期は2年です。総裁になったら1年は思う存分政治に打ち込めるでしょう。でももう1年は、どうしても次の総裁選を睨んで行動しなければならない。せめて3年に延ばせば」
当時 自民党総裁の任期は2年
2年ごとに総裁選を繰り返さなけらばならなかった
それが3年になればもっと政治に集中できる
しかし総裁になった時に3年に延ばせば、延命策と批判を浴びかねない
「やるとしたら今です」
昭は、当時の総裁 佐藤政権下で変えてしまおうと考えた
 
1972年に発表した日本列島改造論
政治家では異例の90万部を超えるベストセラー
書かれているのは、現在実現している未来
地方を繋ぐ計1万㎞の高速道路計画、
9千㎞以上の新幹線網、主要都市への移動3時間県内を目指した
人、モノ、金の流れを逆流させ、過疎と過密を同時に解消する政策
そして1972年7月5日、第64代 内閣総理大臣に就任
 
内閣に就任した日に、角栄が昭に送ったラブレターの内容が
“愛君山岳心不移(君を愛する心は山岳のように移ろわない)角栄 昭どの”
第一次田中内閣は、70%の支持率を集めたが、
角栄の金権政治と越山会の女王報道によって急転直下する
スキャンダル発覚後も、政権内では田中続投と考えられていたが、
「パパ降りなさい」と娘の田中眞紀子の一言で
1974年11月26日、記事掲載から2か月、角栄は総理大臣辞職を表明
1976年2月、ロッキード事件で逮捕
保釈金を払い、釈放されると逮捕から5か月後の総選挙に立候補し、トップ当選を果たす
しかしロッキード事件の裁判は長引き、自民党を離党、無所属となった
最大勢力だった田中派の議員は、それぞれ分立
事務所に人が寄り付くことも少なくなった
1985年2月27日、大量の酒の飲みすぎによる脳卒中で角栄が倒れる
1か月の入院が余儀なくされた
田中家(田中眞紀子)の意向で事務所閉鎖を発表
1985年12月、佐藤昭新事務所 政経調査会を設立
理事には、小沢一郎や羽田元総理らが名を連ねた
昭は、角栄が復帰するまで、自ら政治団体を主宰し、田中角栄の城を守り抜こうとした
1993年12月16日、田中角栄死去
日本全国から人が押し寄せたが、昭は葬式に行くことも亡骸に会う事もできなかった
2010年3月11日、佐藤昭は東京の病院で息を引き取った
葬儀は家族葬で行われ、参列した政治家は、すでに引退していた一人だけだった

(1068)

スポンサード リンク
スポンサード リンク