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●そば屋の発祥は、大阪
1583年、豊臣秀吉が大阪上の建築を始めた頃、
大阪の街に5万人以上の土木関係者が集められた
彼らの腹を満たすために様々な食事処が開店した
砂利などの資材置き場で開店したのが、日本初の蕎麦店
通称「砂場」
大阪市西区新町二丁目の新町南公園に砂場発祥の石碑がある
 
●大阪にうどん文化が生まれたのは、大阪城の築城後
巨石を運ぶのに昆布の滑りを利用していた
大阪に大量の昆布が流通したことで昆布出汁が一気に浸透
うどんとの相性がよく、蕎麦をしのぐ人気メニューとなった

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●立ち食いそばは、ほぼ茶色いうどん
 
乾めん類品質表示基準(消費者庁)によると
そばを乾めんの状態で販売する際には、
そば粉が30%未満のものは、その割合の表示義務がある
しかし飲食店には、表示義務がない
 
立ち食いそばは、値段を抑えるため、
そば粉よりも小麦粉が多く使われている
もしそば粉を10割で作ると値段が2~3倍に跳ね上がる
 
近年、企業努力により、そば粉を5割以上入れる立ち食いそば屋もある

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●「もりそば」と「ざるそば」の違い
海苔が乗っているそばが、ざるそば
海苔が乗っていないそばが、もりそば
 
●ざるそばは、もりそばに海苔を乗せただけ
日本で そばが食べられるようになったのは、室町時代
この時代のそばは、団子状で生や焼いたりして食べていた
現在のそばがきに近い
 
室町時代後期になると平らに伸ばして麺状に切るそばが誕生
つなぎの小麦粉が入っていないので、
すぐ切れるため今のそばよりも太かった
 
江戸時代になると小麦粉をつなぎに入れた二八そばが誕生
当時もそばは、つゆにつけて食べるのが一般的
木の器に盛っていたため、そばを盛る→もりそばと呼ばれるようになった
 
江戸時代中期、現在の江東区深川の伊勢屋という人気のそば屋があった
当時のそばは、お椀に盛られていた
しかしそばについていた水が、お椀の底に溜まり、味を損ねていた
そこで湯切りで使っていた大きなざるを小さくし、それを皿に乗せて提供した
そばがグチャグチャになることが無くなったので
最後まで美味しく食べられるようになった
ざるに盛ることから、ざるそばと名付けられた
伊勢屋のざるそばが人気になると、
ざるそばをメニューに加えるそば屋が続出
 
明治時代、ざるそばを出す店が増えたため、
海苔を乗せて高級感を出し差別化を図った店が登場
当時、海苔の生産量は少なく高価だった
他にもそばつゆにみりんを加えたり、
そばの量を増やすことで差別化を図る店も出てきた
海苔を乗せたざるそばは、物珍しさと香りが合い大人気となる
今では海苔を乗せていていないそばを、もりそば
海苔を乗せて高級感を出したそばを、ざるそばと呼ぶようになった
 
●そばをせいろに盛るようになったワケ
江戸時代末期になると物価の上昇によって、
そば粉の値段も上がり、そば屋の経営が難しくなった
そばの値段を上げるのをためらった店主は、そばの量を減らすことに
江戸幕府は、そば屋の値上げの陳情を却下し、底上げを認めた
この底上げをきっかけに、そばをせいろに盛るようになった

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●生そばの「生」とは、生粋の「生」
生そばとは、小麦粉などのつなぎを
一切使わないそば粉100%で打ったそば
混じりっ気のない生粋のそばという意味
そば粉8割に対して、小麦粉2割を混ぜて作るそばを、二八そば
 
しかし、
●のれんに生そばと書いている店でも、ほとんどが二八そばを提供している
飲食店が出されるようになった江戸時代、
そば屋は大変評判となった
当時のそばは、つなぎを使わないそば粉100%のそばだった
しかし、そば粉だけで作ったそばは、打ちづらく茹でると切れやすい
そこで小麦粉2割を混ぜた二八そばが考案され、
二八そばののれんを出す店が増えた
一方、そば粉100%のそばを提供する店は、
二八そばと区別するために生そばと名乗るようになった
そば粉100%の生そばの方が、
二八そばより風味がよく味も良く、評判となり江戸で繁盛した
そのため、生そばののれんの方が、格上の印象となり、
江戸後期になると、二八そばの店も生そばののれんを出すようになった

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