名所/史跡」カテゴリーアーカイブ

浅草 浅草寺の雷門の大提灯は有名だが、
浅草寺の本堂にも大提灯があり、「しん橋」と書かれている
ちなみに宝蔵門の提灯には、小舟町と書かれている
 
●浅草寺本堂にある大提灯に新橋と書かれているワケ
 
浅草寺の大提灯は、奉納した人が好きな文字を書くことができる
 
浅草寺は東京で最も古い寺で
浅草寺の周りは江戸随一の遊興地だった
江戸で最も宣伝効果が高かった浅草寺に
提灯を掲げることで新橋を知ってもらいたいと
一番最初に大提灯を奉納したことから今もその奉納提灯が残っている

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1970年、大阪万博で披露された岡本太郎の太陽の塔
●太陽の塔には、幼少期バージョンがある
 
その幼少期バージョンは、愛知県にある日本モンキーパークにある
看板には、“ひろびろとした丘の上に“若い太陽”が生まれる 日に日に新しく生まれ変わる われわれの生命の象徴 金色に輝く顔はおおらかにバイタリティを放射する 赤 青 緑の粧いは濃い青春の彩りである 岡本太郎”と書かれている
正式名称は、若い太陽の塔
1969年に完成した
大きさは26m
1年後に大阪万博で披露された太陽の塔は、70m

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平成5年に開業した地上70階建て、
高さ296mの超高層ビル 横浜ランドマークタワー
●横浜ランドマークタワーは昔、明治の日本を支えた造船所だった
 
横浜ランドマークタワーの隣にある
階段状の壁がある屋外スペース ドッグヤードガーデンがその名残
大きさは、縦107m、横29m
  明治24年に横浜造船所として開業
3か所のドッグで多くの船を建造
しかし高度経済成長期になると船の大型化に対応できず移転した
ドッグヤードガーデンは、横浜造船所とのドッグと同じ場所に作られている
  山下公園にある氷川丸は、横浜造船所で造られた

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●羽田空港は昔、アジア最大級のプールだった
 
そこは、今の羽田空港の滑走路あたり
羽田穴守浄化海水プールの大きさは、長さ70m、幅30m
使用していたのは、海水
満潮になると海水がプールに入り、
干潮になると、一定量残して営業ができる仕組み
 
周辺には、野球場や陸上競技場などあり、
明治49年のストックホルム五輪の陸上競技予選会も行われた

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●小田急線 百合ヶ丘駅の名前の由来に、百合は関係ない
 
昭和24年、地元に駅が欲しいと地域住民の声を受け、
有力者が小田急電鉄に駅の建設を依頼した
その際に提示された条件が、安定した駅利用者の確保だった
 
地域の地主たちは私財を投じるなどして
昭和35年、県内初の近代的団地 百合丘団地を建設した
 
当時、駅を作るため土地の提供や開発に尽力した地主が128人
 
百人余りの地主が力を合わせてできた団地であることから
百合う丘、百合ヶ丘と名付けられた

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●東京の中野は昔、巨大な犬小屋だった
 
それを作ったのは、江戸幕府 5代将軍 徳川綱吉
鳥類憐みの令により江戸の町に野良犬が激増
街にあふれた犬を集め、多い時には10万頭を飼育
その飼育にかかる費用が、約100億円
犬小屋があった範囲は、
中野ブロードウェイを中心とした中野駅から高円寺周辺まで約30万坪
 
東京都中野区囲町は、犬を囲っていたことからつけられた地名

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広さは、東京ドーム 約11個分
東京都民の憩いの場として1971年に開園した代々木公園
●代々木公園は昔、東京オリンピックの選手村だった
 
敷地内には、選手の宿舎が200棟以上あった
世界93か国から集まった約6000人が泊まった
1964年の東京オリンピック開催にあたり
明治神宮周辺にある会場へのアクセスの良さから選手村として使われた
 
そもそも江戸時代には、大名や旗本らの下屋敷などが点在していた
明治維新後は民有地となり、一面の茶畑や桑畑に変わった
その後、大日本帝国陸軍の代々木練兵場
戦後、米軍の住宅地ワシントンハイツとして使用されていた

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●上野公園の不忍池は昔、競馬場だった
馬が走るコースが、現在の池の周りの道
明治17年、第1回のレースが開催された
出場者は、武者姿
ギャンブルではなく市民の娯楽として人気を博した
コース沿いには、馬見所という観客席が設けられていた
上野公園は、最新西洋文化を
お披露目するイベント会場としての顔を持っていた
明治40年には、万博も開かれ、
ウォータースライダーが設置されたこともあった
 
●浅草の雷門は昔、凱旋門だった
かつてナポレオンがロシアとの戦いに勝利した時、パリに建てた凱旋門
それに習い、1905年、日露戦争の勝利を記念して浅草に凱旋門を建てた
当時 戦争に強い国を目指していた日本は、
浅草だけでなく日本中に凱旋門を建設した

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紀伊国坂、芋洗坂、魚藍坂、於多福坂、帯坂、など
東京都心の坂には、やたらと名前がついている
 
●東京都心の坂に、やたらと名前がついているワケ
江戸時代、寺社や大名屋敷、武家屋敷が多い場所には、
町名がなかった
そこで不便を感じた江戸庶民は、坂に名前を付けて目印とした
 
例えば、
紀伊国坂は、坂の西側に紀州徳川家の屋敷があった
弥之助坂は、池上弥之助さんの家の前だった
芋洗坂は、諸説あるが坂下の朝日稲荷の前で芋が売られていたため
帯坂は、番町皿屋敷で有名なお菊さんに由来。お菊さんが、この坂を髪を振り乱して、帯を引ずって走ったことから
於多福坂は、坂の傾斜がお多福面のようだったから
魚藍坂は、坂の中腹に魚籃寺が存在することから

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紅葉シーズンになると大渋滞になる日光のいろは坂
日光市街と中禅寺湖を通り、全長15.9㎞、高低差440mもある坂
この坂は、元々 中善寺坂という名前だったが、
昭和初期に いろは坂と呼ばれ始め、のちに正式な名前になった
 
●日光のいろは坂の名の由来は、カーブの数
実際に いろは坂を走ってみると1つ目のカーブに「い」、
2つ目のカーブに「ろ」、3つ目のカーブに「は」と看板がある
カーブの合計は、上り下り合わせて48
48といえば、いろは48文字
数が同じなので、いろは坂と呼ばれるようになった
初めに いろは坂と言い始めたのは、ケーブルカーのガイドさん

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