平安時代」タグアーカイブ

下駄は、二本歯と一本歯の2種類ある
先に誕生したのは、二本歯の下駄
平安時代、二本歯の下駄の原型が誕生した
荒れた路面でも着物の裾が汚れないために、この形となった
 
●一本歯の下駄は、山道を歩くために作られた
 
一本歯の下駄は、山伏や修験者が愛用していた
山の斜面を歩く際、下駄の先端と一本歯で体を支え、
不必要な後ろの歯を無くすことで
二本歯よりも岩や木の根に引っかかりづらく歩きやすい

(318)

スポンサード リンク
●国の中国とは、現在の国名 中華人民共和国の略ではない
中国という言葉は、中華人民共和国ができるはるか昔、
紀元前の頃からあった言葉
それは、中華思想に由来している
紀元前2000年頃に誕生した最古の王朝 夏王朝
その後を継いだ殷、周…
それら王朝は黄河中流域の中原と呼ばれる平原に栄えた
その周辺勢力を蛮、戎、狄、夷などと呼び、
文化の劣った野蛮な人々だとして排除した
自ら文明を夏の中心と名乗り、中華と名付け、
のちに夏は、発音と意味が近かった華に置き換え、中華となった
中華思想とは、自らは文明の中心にいるという考え方
そして中心の国であるため、中国と呼ばれるようになった
 
●日本の地方名の中国は、国の中国と全く関係ない
日本の地方の中国は、平安時代頃から呼ばれるようになった
当時の政治の中心は、京都と太宰府
大宰府は、大陸や朝鮮半島と外交を行う場であり、九州全体を治める西の中心地
京都と太宰府の中間にある現在の岡山県東部、兵庫県西部、
島根県、香川県、徳島県あたりを中間の国、中国と呼ぶようになった
明治に入り、日本を8つの地方に分ける際に
中国地方を現在の山口県、広島県、鳥取県、島根県、岡山県を組み込んだ

(322)

小豆を煮て砂糖を加えて練り、粒を残したあんこを、つぶあんという
粒々があり似ている小倉あんだが、実は全く違う
 
●つぶあんと小倉あんの違い
飛鳥時代、当時 肉を食べられなかった僧侶が、
肉の代わりに煮た小豆を食べたのが、つぶあんの始まり
その頃のつぶあんは、砂糖が入っておらず、
甘くなくご飯のおかずとして食べられていた
 
平安時代、当時京都で繁盛していた天皇御用達の菓子屋の職人 和三郎が、
砂糖を入れたつぶあんを開発する
天皇への献上品にするには、小豆がつぶれて見た目が良くない
困っていた和三郎に、唐から帰ったばかりの空海が、
現地から持ち帰った小豆を差し出してくれた
それは普通の小豆より一回り、二回り大きな小豆だった
煮てみると皮が破れにくいという特徴があった
煮ても皮が破れないことから切腹を連想させないということで、
切腹の習慣がない公家の役職名にちなんで、大納言小豆と名付けられた
和三郎は、大納言小豆を地元の山で栽培し、甘いつぶあんを作った
その大納言小豆を栽培したのが、京都の小倉山の近くだったことから、
小倉あんと名付けた
 
普通の小豆で作ったのが、つぶあん
小倉山付近で栽培された大納言小豆で作ったのが、小倉あん
 
江戸時代になると、大納言小豆の値段が高すぎるということで
普通の小豆で作ったこしあんに少しだけ大納言小豆を混ぜたものを
小倉あんとして売り出すお菓子屋が増え、広く定着した
現在でも、普通のこしあんに少しだけ大納言小豆を混ぜたものを小倉あんと呼んでる

(424)

●渡部さんの職業は、船渡しだった
飛鳥時代には、渡部さんがいたと言われている
現在の大阪、摂津国で船渡しをしていた人たちが、名乗った名字が渡部
部は、当時の職業を表す漢字
船渡しの職業を渡部と書き、(わたしのべ)と呼んでいた
次第に、わたしのべ→わたしなべ→わたなべと変化した
船渡しの職業だった人が、その後、名字として名乗るようになった
 
●渡辺は、元々名字ではなく地名だった
平安時代、現在の大阪あたりで船渡しの仕事をしていた渡部さんたちは、
職業柄 皮の近くの集落に住んでいた
そんな渡部さんが住む集落を渡部の辺りと呼んでいた
次第に渡部を辺りを略して、渡辺という地名で呼ぶようになった
 
平安時代中期になると渡辺の地を治めるため源綱が訪れる
渡辺を治ることになった源綱は、渡辺綱と姓を改めた
それまで地名だった渡辺を、名乗ったため最初の渡辺となった
 
当時、京の都の近くには鬼と呼ばれていた盗賊が悪さをしていた
鬼退治に呼ばれた渡辺綱は、見事に鬼を成敗した
この鬼退治伝説は、都周辺に広がった
渡辺綱の活躍が広まるにつれ、渡辺に姓を変える渡部さんが続出
 
その後、鎌倉時代になると船渡しをしていた渡辺さんは、
その技術が買われて各地の権力者に雇われるようになり、
全国に渡辺さんが広まった
 
●他に派生したワタナベの名字は、戸籍を登録するときに役人が書き間違えたモノ

(206)

桜を見に行くことを花見という
なのに、紅葉を見に行くことを「もみじ狩り」という
元々、桜を見に行くことも「桜狩り」と言っていた
 
●植物を見て楽しむことを、なぜ○○狩りがつくのか?
もみじ狩りや桜狩りは、平安時代に誕生した言葉
○○狩りとは、いのしし狩りやきのこ狩りのように
山に入って何かをとってくるという意味
平安時代の貴族は、桜が咲いた枝や紅葉したもみじの枝を
折って持って帰ってきて鑑賞したり、
かんざしや着物の帯にさしてオシャレとして楽しんでいた
山に入って桜やもみじの枝を折って採ってきていたことから
もみじ狩り、桜狩りと呼ばれていた
 
●桜狩りが消えたワケ
平安時代初期、貴族の間では春になると
山に桜の枝を採りに行く桜狩りが流行
しかし御所に住んでいた仁明天皇は、安全上、桜狩りに行けず、
貴族たちが山で採ってきた桜の枝を御所で見ることしかできなかった
834年、仁明天皇は清水寺へ出かけた際に
近くの山に生えている桜の木を初めて目にする
初めて見た桜の木に感動した仁明天皇は、
御所の庭に植えていた梅の木を全て抜き、
山から持ってきた桜の木に植え替えさせた
そして貴族たちも仁明天皇を真似て桜を庭に植えるように
自宅の庭で桜が見られるようになったので、
桜を見るためにわざわざ山に入って桜狩りをする必要がなくなった
そのため桜狩りという言葉も徐々に使われなくなり、今では花見という言葉だけ残った
紅葉は、たくさんの木が色づく美しさが魅力のため、
山に紅葉を見に行く「もみじ狩り」の習慣は残った

(185)

江戸川大学:斗鬼正一 教授によると
台所とお勝手は、今でこそ料理をする場所という意味で使われているが、元々、別の意味だった
 
●元々 台所は、料理を盛りつけする場所だった
日本では奈良時代から火を使って調理する場所を「くりや」と呼んでいた
そして中国から、調理をするという意味の「厨」という漢字が入ってきた時に、「くりや」に「厨」の漢字をあてた
平安時代の貴族の屋敷、厨(くりや)で作られた料理は、盛りつけをする台盤所に運んでいた
貴族が使っていた足つきのお膳を台盤と呼び、台盤を並べて盛りつけする場所を台盤所と呼ぶようになった
次第に、台盤所を略して、台所と呼ぶようになった
元々、台所とは、料理を盛りつける場所のことだった
そして台所を仕切る主人の妻のことを丁寧な意味になる「御」をつけて「御台所(みだいどころ)」と呼ぶようになった
室町時代になると厨から台所まで料理を運ぶ手間を省くため、同じ建物の中に造られるようになった
その場所全体を台所と呼ぶようになった
 
●元々 お勝手は、使用人が自由にできる台所のことだった
室町時代になると男性の権力がより強くなり、男社会が色濃くなった
使用人の女性は屋敷の中では自由にできない風潮になっていった
しかし台所だけは使用人の女性が食事をしたり談笑したり男の目を気にせず、唯一自由にできる場所だった
使用人の女性にとって台所は、勝手がきく場所だったため、丁寧語の「お」をつけて「お勝手」と呼ぶようになった
今でも台所にある小さな出入り口を勝手口と呼ぶが、使用人の女性たちが勝手に外に行き来できる出入り口だったので勝手口と呼ぶように

(165)

風邪の場合は、風邪をひくという
●風邪にかかると言わないワケ
インフルエンザにかかるを漢字で書くと「罹る」
罹るは、病気になるという意味
インフルエンザ以外にも
喘息にかかる、肺炎にかかる、花粉症にかかる
風邪は、元々 病気ではなかった
風邪は、咳、熱、鼻水の状態を持っているときに使う言葉だった
昔からあまりにも多くの人が、
体調が悪くなった時に「風邪をひく」と言っていたので
「かぜ症候群」という病気になった
 
●風邪をひくと言葉が使われるようになったのは、平安時代から
平安時代中期、京の都では、咳や熱などで体調を悪くする人が続出
それによって多くの人が命を落とした
それは平安時代に流行した家の造りにある
奈良時代は敵の侵入を防ぐために窓が少なく壁で全面を覆っていたが、
平安時代になると日本の四季を感じるために庭を造り、
部屋と外を仕切る壁が無くした
これが原因で風が直接体にあたり、体調を悪くする人が続出
風を体に引き込むと体調を崩すことから、
「風をひく」という言葉が生まれた
「風をひく」という言葉は、貴族から庶民に伝わり、
体に悪い影響を及ぼす風を邪気と考え、
風に邪気の邪をあてて「風邪」と呼ぶようになった

(208)

●湯布院と由布院
 
「ゆふいん」という地名がつけられたのは、奈良時代
古くから楮と呼ばれる木がたくさんあり、
その皮から採れる「ゆふ」と呼ばれる繊維を使って布などを作っていた
米などを保管する院と呼ばれる蔵がいくつもあったことから、
「ゆふ院」と呼ばれるようになった
 
平安時代、古くから布を作っていたことから
物事の始まりを意味する「由」と「布」をあてられ「由布院」となった
 
大正時代、地元の有力者が由布院に
別荘を建てたことから次第に温泉街として有名になった
 
昭和30年、由布院町と隣村の湯平村が合併
湯平村の「湯」を由布院の「由」にあてて、「湯布院」が誕生した
昭和30年前に建てられた建物や施設は、由布院を使用している
さらに温泉の正式名称も、由布院を使用している

(169)

現在では湯舟と浴槽は、同じ意味だが、元々は全く違うモノだった
 
浴槽が登場するのは、平安時代
浴槽とは、入るためではなく、
体を清めるために水やお湯を溜めた木の容器のことだった
 
庶民が浴槽に浸かるようになったのは江戸時代の中期
水路の整備を進み、庶民が自由に水を使えるようになった
そこで造られたのが、現在のようにお湯に浸かる銭湯
お湯に浸かる容器は、浴槽と呼ばれていた
 
●元々 湯舟とは、お湯を運ぶ舟
当時、大人気の銭湯は、江戸の中心部に集中
郊外で暮らす庶民は、中々銭湯に行けなかった
そこで郊外で暮らす庶民向けに移動式の銭湯が誕生
それは浴槽を乗せた船
船の上で庶民は火を焚いて温められたお湯に浸かっていた
お湯を運ぶ舟が「湯舟」
人気を誇った湯舟だったが、次第に郊外にも銭湯が造られるようになり
湯舟を利用する人が減り、100年ほどで姿を消した
郊外に住む人にとっては浴槽に浸かる=湯舟だったため、
湯舟という言葉だけが残り、
次第に浴槽と湯舟が同じ意味として使われるようになった

(673)

●かつて天皇は、池に映った月でお月見をされていた
 
昔 天皇は、神の存在であったため
上を見上げることができなかった
そのため天皇は、月を見上げられなかった
 
平安時代、嵯峨天皇は、お月見をしたがったため、
わざわざ離宮である大覚寺に周囲1キロもの人工池を造った
その水面に映った月でお月見を楽しまれた

(181)

スポンサード リンク