人物」カテゴリーアーカイブ

改名をきっかけに大成功したスター

 

●元バカルディの さまぁ~ず、元海砂利水魚の くりぃむしちゅー

この名前を考えたのは、ウッチャンナンチャンの内村光良だが、

2組が大ブレイクしたことで、

これ以上人の運命を変えるのは嫌だと改名は封印している

 

●元SEXY KIYOSHIの唐沢寿明

無名の劇団時代に本名のキヨシになぜかセクシーをつけて出演していた

 

●元SrV.VinciのKing Gnu

SrV.Vinciは、サーバビンチと呼ぶ

サーバ上のレオナルド・ダ・ヴィンチという意味で

もしレオナルド・ダ・ヴィンチがパソコンを使ったら、というコンセプト

 

●元 月火水木金土のONE PIESE 作者 尾田栄一郎

月火水木金土は、つきひみずきこんどうと呼ぶ

新人賞に応募した際のペンネームが月火水木金土だった

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かつては、自殺の名所と呼ばれていた

 

1903年、東京大学の前身である第一高等学校の学生:藤村操は、遺書を残して華厳の滝から身を投げた

遺書は身の投げる前の木に彫られていた

“巌頭之感 この世の全てのものの真相は「不可解」である。僕はこの想いに悩み苦しみ、ついに自ら死を選ぶことを決意した。滝の岩の上に立った今、私の胸の中には何の不安もない。”

将来に何の不安もないエリート学生が将来に思い悩み自殺した藤村の自殺は、

将来に不安を抱く学生の多くが共感し、後追い自殺が増え、社会現象となった

それらの自殺によって藤村の彫った遺書を見ると自殺したくなるとまで噂され、たくさんの人に影響を与える

 

夏目漱石は藤村が通う第一高等学校の英語の先生だった

藤村が疾走する数日前、宿題を持ってこなかった藤村に厳しく叱責した

その罪悪感からか、夏目漱石の作品には華厳の滝がたびたび登場する

「吾輩は猫である」には、“「打っちゃって置くと巌頭の吟でも書いて華厳の滝から飛び込むかも知れない”と書かれている

この事件の影響で、夏目漱石は病んでしまったと言われている

 

余りに多くの自殺を生んだ藤村の遺書が彫られた木は、政府によって伐採された

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江戸時代、日本を統治していたのは徳川家

将軍は家康の直系から選ばれていた

それに次ぐ地位が、尾張、紀州、水戸の徳川御三家

水戸藩の初代藩主は徳川家康の11男 徳川頼房

頼房には正室がおらず、側室が9名いた

ある日、正式な側室ではなかった久子が身ごもった

しかしものすごく嫉妬深い側室が、久子の堕胎を懇願

頼房は仕方なく家臣の三木之次に堕胎を命じた

あまりにも久子を不憫に思った三木之次は、

三木家に久子をかくまい、密かに出産させた

その子は、幼い時から非凡な才能を発揮、

めきめき頭角を現し、立派に成人した

そして頼房が嫡子と、ついには後継ぎと認めるまでに

この子こそ、徳川光圀、のちに水戸黄門と呼ばれる人

 

三木之次がいなければ、水戸黄門は、この世に誕生していない

 

大正7年、三木之次の子孫 三木啓次郎は、

幕末の桜田門外の変で亡くなった水戸浪士の

お墓参りに大阪の四天王寺を訪れ、

寺の前でアイデア商品を売っている青年に会った

三木啓次郎は、その商品を見た時に100%売れると確信

自らの田畑を売った資金を青年に投資した

そのお金で青年は、アイデア商品を大量生産し、

販売したところ、瞬く間にヒットし、大企業の社長となった

そのアイデア商品こそ、二股ソケット

そして青年こそ、パナソニックの創業者 松下幸之助

松下幸之助は、三木啓次郎に恩義を感じ、

何とか恩返しをしたいと考えに考え抜いて

松下電器1社提供のナショナル劇場ドラマ「水戸黄門」の放送だった

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昔、宿が見つからず困っていた旅人を家に泊め、
貧しいながらも食事までふるまった男がいた
旅人の正体は、病の神様
もてなしに感謝し、男に約束する
「お前の家だけは助けてやろう」
その言葉通り、男の一家は、
どんな病にもかからず子々孫々繁栄
その男こそ、蘇民将来
以来“蘇民将来の子孫なり”と書いて戸口に貼っておけば、
疫病にかからないと信じられてきた
 
地方によっては、正月のしめ飾りに書かれていたり、
岩手県黒石寺で行われる蘇民祭では、
真冬に裸で水をかぶり、1年の無病息災を祈願したり、
実は、日本中に浸透している名前

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インドの貧しい家に生まれたシュリニヴァーサ・ラマヌジャンは、まともな教育を受けられなかった
ある日、ラマヌジャンは、1冊の本に出合う
それは大学受験用の数学の公式集
何でもない単なる公式集の本にラマヌジャンは衝撃を受ける
これが数学に没頭する最初にきっかけだった
大学には奨学金を貰って何とか入れた
しかし数学に没頭しすぎて他の科目がおろそかになり
奨学金が打ち切りとなり、大学を辞めることに
そんな彼のノートには、誰も知らない公式がたくさん書かれていた
それを見た友人の勧めで、イギリスのケンブリッジ大学に手紙を書いた
そこには自分が見つけた定理、公式、数式をずらりと書き並べた
その手紙を見た教授は、驚愕し、初めてラマヌジャンの名が世に出る
周りからどうやって数式を作り出したのかと問われても、
まともな教育を受けていないラマヌジャンは、証明できない
ふと降りてくると答えるのみだった
 
32歳で病死するまで3000以上のもの数式を作り出し、
今でも30以上の数式が証明されていない
ラマヌジャンの数式は、クレジットカードのセキュリティシステムやブラックホールの研究に応用されている
 
マーク・ザッカーバーグいわく、ラマヌジャンはインターネットがなかった時代にたった1冊のノートで世界を変えた男だ、と絶賛している

(418)

電話の発明者として教科書の載っているのはグラハム・ベル
それは特許を取ったのが、ベルだったため
 
ベルが発明したと言われる5年前に
アントニオ・メウッチが電話を発明したと言われている
 
ある日、メウッチの妻が病気で動けなくなった
病室にいる妻と何とかして連絡を取りたいと思って発明したのが電話だった
経営が悪化し破産したメウッチは、特許の申請料が払えなかった
結果、特許はベルが申請し、後世に電話の発明者として名が知られることになった
 
メウッチの死後、100年以上経った2002年、アメリカの議会で
電話の発明者はベルではなくメウッチであると認められた

(353)

オーケストラの指揮者の象徴 指揮棒
実は、17世紀の頃は、長い長い金属の棒が使われており、
床を叩いてリズムをとっていた
しかしフランスのある作曲家が、誤って自分の足を刺してしまい
その傷が原因となり死亡してしまったことから、現在の短い棒に変わった
 
●ベートーヴェン 交響曲第9番の呪い
歴史に名を遺す世界を代表する音楽家たちが
交響曲第9番を発表したのちに次々と死亡している
シューベルトも交響曲第9番を発表後に死亡
ブルックナーも交響曲第9番を発表後に死亡
ドボルザークも交響曲第9番を発表後に死亡
人々は、これをベートーヴェンの呪いと呼び、恐れた
このジンクスを打ち破ろうとする作曲家が現れる
オーストリア出身のマーラー
自身の交響曲第8番完成後に作った曲を
第9番と名付けずに大地の歌と名付けた
これで呪いを回避できると思ったのか、その後に作った曲に
本来なら第10番の曲に第9番と名付け、翌年に死亡する

(587)

太宰治は、子供の頃から成績優秀で東京帝国大学(現在の東大)に合格したエリート
そんな太宰が、学生時代に使っていたノートには、落書がの多数
憧れの芥川龍之介の名前を書き連ねていた
 
●落書きをすると記憶力が上がる
2009年のイギリスのプリマス大学の実験によると、
落書きをしながら記憶した方が、記憶力が高まることが分かった
同じ授業を受けた学生のうち、落書きをしながら聞いたグループは、
落書きをしなかったグループより、記憶テストの成績が3割も良かった
その理由は、楽しく落書きをするとドーパミンが出て記憶力を強化するから
真面目に板書するのが一番だが、集中できない時は、落書きをすると脳が活性化する

(499)

明治維新後、位が上がった薩長の武士は政府に正式な名前を登録することに
その際、西郷本人に確認せずに同じ薩摩出身の友人 吉井友実が、
西郷の父の名前である隆盛を登録してしまった
その後、西郷は「隆盛でもよかよか」と受け入れてしまったという
 
●西郷隆盛は、本名ではない
明治4年、東京で出会った西郷と庄内藩出身の菅実英
実英の優秀さに惚れ込んだ西郷
2人はすぐに意気投合
実英が山形に変えることを知った西郷は、実英の宿所に出向いた
しかし実英は留守
西郷は「ご帰宅ならばこれを」と手紙を託した
“明日は君がたって 遠いところへ 離れてしまうかと思うと胸が痛む”
その最後に書かれた名前が、西郷隆永
西郷の本名は、隆永
 
1877年の西南戦争で西郷は罪人扱いとなった
明治政府は西郷のことを公に語ることを禁止していた
1889年、西郷の死後12年が過ぎ、西郷の名誉が回復
菅実英が中心なり西郷の教えを本にまとめ出版した
 
西郷の本名が書かれた手紙は、山形にある菅家に保管されている

(252)

忠臣蔵で名高い赤穂浪士の一人 堀部安兵衛は、最強の剣豪と謳われ、
主君の仇討ちを果たしたのち、幕府に命じられ切腹した
堀部安兵衛の死から約50年、江戸では忠臣蔵が大ブームに
歌舞伎で演じられ、堀部安兵衛は一躍 江戸の人気者になった
ある日、赤穂浪士が眠る品川 泉岳寺に60代の女性が現れる
この女性こそ、妙海尼
妙海尼は、堀部安兵衛の妻と称し、忠臣蔵の逸話を吹聴
その話を信じる庶民が続出
噂は全国に広まり、大名や豪商まで駆け付け、莫大なお布施を渡した
 
堀部安兵衛の本物の妻は、妙海尼が現れた30年前に、45歳ですでに死去していた
 
妙海尼を信じた一人の藩士が、
妙海尼から聞いた有形無形な話を書物「妙海語」にまとめている
赤穂浪士討ち入りのため吉良上野介の屋敷に忍び込んで女スパイ7人で情報収集した
残り6人の女スパイにも話を聞きたいとお願いすると、みな自害したと答えた
 
結果、妙海尼の吹聴で赤穂浪士の人気がより広まった
 
肩書きに弱い身分制の社会なので
なりすまし詐欺は、江戸時代の名物
 
福島県河沼郡にある貴徳寺に、妙海尼の供養塔がある

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