東京医科歯科大学 上村公一 教授によると
人間の顔にはたくさんのパーツがあり、
その中で親に似やすいパーツと似にくいパーツがある
似やすいパーツは、大きく分けて目、鼻、アゴ(輪郭)の3つ
親と顔が似ている人は、その3つのパーツが似ており、
親と顔が似ていない人は、その3つのパーツが似ていないこと
 
目、鼻、アゴ(輪郭)は、骨で出来ている
骨の構造は、親から遺伝しやすい
 
親に似にくいパーツは、頬や唇
このパーツは、骨ではなく筋肉で出来ている
頬は、食べ方や噛み方で筋肉の付き方が変わる
唇も呼吸の仕方で形が変わる
子供の頃、顔が似ている親子であっても
月日が経てば経つほど徐々に似なくなっていく可能性がある
 
●男の子は母に似て、女の子は父に似る、は、科学的根拠がない
それぞれ目、鼻、アゴが、父に似るか、母に似るか、その確率は半々

(1)

スポンサード リンク
客を呼び込むために店の前に盛り塩を置く風習は、
2200年前、秦の始皇帝の逸話が関係している
 
一代で中国大陸を統一した始皇帝は強大な権力を持っていた
始皇帝が住む都 咸陽には、
始皇帝の身の回りのお世話係として3000人もの女性が住んでいた
始皇帝は空いた時間があると女性たちの家を牛車に乗って訪ねていた
女性たちは始皇帝に来てもらうために服を着飾ったり
楽器を弾いたりして必死にアピールしていた
そんな中、なかなか始皇帝に来てもらえない女性が、
牛の大好物の塩を家の前に置いた
牛は塩を舐めるのに夢中になって動かず、始皇帝は目の前の家に訪ねて来た
 
その後、盛り塩を置くことで
これまで来てくれなかった始皇帝が来てくれたという逸話が
中国全土に広まり、それがいつしか店の前に盛り塩を置くことで、
これまで来なかった客が来てくれると言われるようになった
 
奈良時代に日本に伝わり、現在でも客を呼び込みたい店では盛り塩を置いている

(7)

●みたらし団子は、鎌倉時代に京都で誕生した
京都の下鴨神社にある御手洗池は、
古来より池の水で手や足を洗うと無病息災のご利益がある神聖な池とされる
御手洗池の地下からは水が湧いており、たまに泡が湧き出てくる
それを見ることができるととても縁起が良いとされていた
鎌倉時代、醍醐天皇が御手洗池で手を清めていると、泡が湧き出てきた
一つ見るだけで縁起が良いとされる泡が、さらに4つ続けざまに湧き出、
合わせて5つの泡が出てきた
古来より下鴨神社は神へのお供え物として団子を奉納していた
元々は、串に刺していない一つ一つの状態だったが、
この縁起が良い出来事にあやかりたいと
5個を串に刺した状態でお供えするようになった
その後、5個刺しの団子を境内の茶店で売るようになった
 
江戸時代、京都で誕生したみたらし団子は、
江戸にも伝わり、庶民に大人気になっていた
その値段は、1串5個で5文、みな一文銭 5枚を出して買っていた
1768年、四文銭が登場
一文銭4枚分の四文銭は、持ち運びに便利だと瞬く間に広がり、
多くの食べ物屋が四文銭1枚で支払えるように
商品を4文で売り出すようになった
みたらし団子も4文で売るようにと要望が続出
1串5個の団子を5文で売っていたみたらし団子を、
損をしないように4個4文で売るようになり、それが定着した
 
●花見団子を作ったのは、豊臣秀吉
1598年、天下を取った秀吉は、
京都の醍醐寺で1300人を招待する大規模な花見を計画
その花見の目玉として考えたのが、誰も見たことがない団子
当時、団子と言えば5個刺しのみたらし団子が主流
秀吉が考えたのは、日本の四季を表現した色鮮やかな三色団子
上から、桜をイメージした春、雪の降る冬、葉が生い茂る夏を表している
秋を抜いたのには、2つの理由があった
食べ飽きない、商いが繁盛するようにと願いを込めて、秋無い
秀吉が作った花見団子は、人気となり日本全国に広まった

(2)

●唐揚げと竜田揚げには、明確な違いがある
鶏肉の印象が強い唐揚げだが、
食材やまぶす粉に決まりがなく、油で揚げたモノ全てを唐揚げという
そもそも日本では、鎌倉時代から油で揚げる調理方法があった
その食材は、野菜や魚介類がほとんどだった
 
●唐揚げ=鶏肉の揚げ物の印象が定着したワケ
昭和7年、銀座にある三笠会館が、
日本で初めて鶏肉を揚げた若鶏の唐揚げがメニュー化された
経営が芳しくなかった時、従業員に何か良い打開策はないかと相談した
1人のコックが、江戸時代に中国から伝わってきた精進料理で
豆腐を小さく切って揚げた料理があるのですが、ご存知ですか?
その豆腐を小さく切って揚げた料理の料理名が、唐揚げだった
コックたちは、新しい揚げ物を作ろうと、当時高価で珍しかった鶏肉を使うことに
鶏肉を揚げた揚げ物を、若鶏の唐揚げと名付けた
若鶏の唐揚げは、たちまち人気となり、
その後、全国に若鶏の唐揚げが広まっていき、
唐揚げ=鶏肉の揚げ物という印象が定着した
 
竜田揚げも食材に関しては、特に決まりはないが、2つの条件が必要となる
1、醤油、みりんで下味をつける
2、片栗粉をつけて揚げる
●竜田揚げは、軍艦 龍田で誕生した
龍田とは、1920年ころに活躍した軽巡洋艦
第一次大戦直後、戦争による食糧不足が深刻化
国から海軍に、安くて美味しい軍の料理を作るようにと命令が下った
海軍が目を付けたのが、当時とても安く手に入ったクジラ
しかし血合いが多いクジラ肉は、すぐに生臭くなる
そこで軍艦 龍田の料理長が開発した調理方法が、
醤油の風味、みりんのアルコールでクジラ肉の生臭さをとり、
さらに粘着性の強い片栗粉をまぶし揚げることで全体にしっかりとした衣をつける
この調理方法によって、クジラ肉の生臭さを感じさせない揚げ物に仕上げた
軍艦 龍田で誕生した揚げ物は、竜田揚げとして日本中に広まり、
次第にクジラ肉以外の食材が使われるようになった

(8)

本場中国の餃子には、ニンニクは入っていない
 
●日本の餃子にニンニクが入っているワケ
 
元々、日本に餃子を広めたのは、
第二次世界大戦後、中国から引き揚げてきた人々だと言われている
最初に日本に入っていた時に使われた肉は、年老いた低品質の羊肉
羊肉の臭いを消すためにニンニクを入れるようになり、
それがそのまま日本で定着した

(0)

日本で初めてショートケーキを販売したのは、不二家
大正11年にイチゴのケーキをショートケーキと命名して販売した
●ショートケーキのショートは、ショートニングが由来
 
明治43年、横浜 元町に藤井林右衛門が洋菓子店 不二家を開業
開店から2年後の大正元年に新商品開発の視察のためアメリカに渡った
当時アメリカで流行っていたショートケーキは、
スコーンのような生地でイチゴや生クリームを挟んだケーキだった
ショートケーキの名前の由来は、
植物性油や動物性油を固形状にした油脂(ショートニング)を使っているから
ビスケットなどのお菓子を作るときに生地をサクサクにするための材料
 
ショートケーキの美味しさに感動した藤井は、
帰国後、アメリカのショートケーキを参考に新しいケーキの開発を始める
アメリカのショートケーキの固くサクサクした食感は、日本人の口には合わない
そう思った藤井は、カステラをヒントにフワフワのスポンジ生地にすることを思いつく
完成したケーキは、スポンジ生地の上に生クリームとイチゴ、ミカンなどのフルーツ
アメリカのショートケーキを参考にしたからとショートケーキと名付けた
 
そのため不二家では、今でもイチゴを使ったホールケーキを
ショートケーキという商品名で販売している
 
その後、藤井は生クリームと一番相性の良いイチゴだけを乗せたショートケーキを作るように
そのショートケーキは、大評判となり、
全国の洋菓子店でもイチゴのショートケーキを作るようになったため、
日本ではイチゴを使ったケーキがショートケーキとして定着した

(1)

昭和の時代、銭湯で腰に手を当てて飲んだ瓶入り牛乳
●銭湯に瓶入り牛乳が置かれるようになったワケ
 
昭和30年代、冷蔵庫は、テレビ、洗濯機と共に三種の神器と呼ばれ、
一般家庭では、ほとんど見ることがなかった
当時大繁盛していた銭湯には、最新の冷蔵庫が置かれていて、
そこに目を付けたのが、牛乳販売店
最初に販売されたのは、1928年に牛乳
1956年にコーヒー牛乳、1958年にフルーツ牛乳と販売された
 
銭湯で風呂上がりに飲む飲み物の人気は、圧倒的にコーヒー牛乳だという

(0)

1928年、新潟県刈羽郡に6人兄妹の末っ子として誕生
早くして身寄りを亡くした彼女は、17歳の時 同郷の男性と婚約
田中角栄と出会ったのは、角栄27歳、昭17歳の時
建設会社の社長だった角栄が、新潟2区から衆議院選に立候補するため
弁論部だった昭の婚約者の力を借りるためにやって来た
角栄に対する昭の第一印象は、年齢の割に老けた男性という印象しなかった
一方、角栄は、昭に一目惚れした
この時の選挙で落選したものの翌年 1947年、第23回 総選挙に当選
昭も夫と共に新潟から上京し、都内で電気工務店を開業
仕事は、角栄が代表を務めていた田中土建工業の下請けがほとんどで、よく角栄も会社に顔を出していた
そして帰りがけに決まって「奥さん いつまでも苦労はさせないからね」と言ったという
1951年、昭の夫の会社が倒産
夫は会社の再建に汗を流すこともなく酒浸りとなり、夫婦の間に深い亀裂が入っていた
結婚生活5年目、昭は離婚を決意した
離婚を噂を聞きつけた角栄は、昭の下に駆け付けた
「君 わしの秘書として働いてみるつもりはないか?」
昭は角栄の誘いに了承した
1952年12月1日、昭は初めて永田町にある第一議員会館に顔を出した
すでにこの時、角栄と昭は愛人関係になっていたという
最初に昭に与えられた仕事は、1万枚の年賀状のあて名書き
昭は2週間で書き終えた
角栄は、褒める代わりに次々に仕事を与えた
秘書になって数か月、昭は、角栄の期待に応えるように驚くべき能力を発揮する
「おい!あそこへ電話せい!」
せっかちな角栄は、誰に何の用件でかけるか詳しく言わなかった
しかし昭は「わかりました」
角栄のあそこの一言で即座に電話をかけられるようになっていた
 
角栄は昭を「君ほどの利口な女は初めてである」と評している
桁外れの判断力と実行力で、コンピューター付きブルドーザーと呼ばれた角栄にこう言わしめた昭
1953年、史上最強の後援会と呼ばれる組織 越山会が発足
角栄の後援会である政治団体で、その会員数は、最も多い時で約9万人
越山会にあらずんば人にあらず、と言われるほど選挙に滅法強く圧倒的な地盤を誇った
この巨大組織の金庫番で100億以上の資金を動かしていたのが、
角栄が会計責任者に任命した昭だった
 
のちに昭は、越山会の女王として政界に強い影響力を持つこととなる
出会いから約11年 1957年7月、昭は長女あつ子を出産
昭は、角栄に対して子供の認知を求めなかった
 
昭という最強の右腕を手に入れた角栄は政界を登り詰めていく
初当選から2年で、26の法律を作り、1957年、39歳の時に最年少で郵政大臣に就任
ついに昭は、第一秘書に登り詰めた
角栄はさらに仕事に邁進していく
それまでの郵政大臣が4年かけて手を付けられなかったテレビ放送の免許問題をたった2日で解決
現在の民間放送の原型をキー局、ネット局体制を完成させた
法案成立のため六法全書を丸暗記するほど努力を惜しまなかった
 
この頃から角栄の判断が必要な案件も、昭に判断を任せられるようになる
角栄は昭の仕事ぶりを「俺には代議士になる秘書はいらない。必要なのは実印を任せられる秘書だ」と評している
昭は、角栄を総理にするため、角栄に会いたいという人がいれば、
角栄の敵と思われる人も出合わせた
さらに有望な若手議員と角栄との窓口役にもなっていた
小沢一郎や橋本龍太郎など有望な人材は、積極的に角栄に合わせていた
昭は、角栄の金を握り、スケジュールを動かし、唯一意見できる存在にまでなっていた
1961年、43歳の時、自民党 政調会長に就任
1962年、大蔵大臣に就任
1968年、51歳の時に、2度目の自民党 幹事長に就任
この頃、昭は、角栄の総理就任後のことまで考え、ある提案をする
「総裁の任期は2年です。総裁になったら1年は思う存分政治に打ち込めるでしょう。でももう1年は、どうしても次の総裁選を睨んで行動しなければならない。せめて3年に延ばせば」
当時 自民党総裁の任期は2年
2年ごとに総裁選を繰り返さなけらばならなかった
それが3年になればもっと政治に集中できる
しかし総裁になった時に3年に延ばせば、延命策と批判を浴びかねない
「やるとしたら今です」
昭は、当時の総裁 佐藤政権下で変えてしまおうと考えた
 
1972年に発表した日本列島改造論
政治家では異例の90万部を超えるベストセラー
書かれているのは、現在実現している未来
地方を繋ぐ計1万㎞の高速道路計画、
9千㎞以上の新幹線網、主要都市への移動3時間県内を目指した
人、モノ、金の流れを逆流させ、過疎と過密を同時に解消する政策
そして1972年7月5日、第64代 内閣総理大臣に就任
 
内閣に就任した日に、角栄が昭に送ったラブレターの内容が
“愛君山岳心不移(君を愛する心は山岳のように移ろわない)角栄 昭どの”
第一次田中内閣は、70%の支持率を集めたが、
角栄の金権政治と越山会の女王報道によって急転直下する
スキャンダル発覚後も、政権内では田中続投と考えられていたが、
「パパ降りなさい」と娘の田中眞紀子の一言で
1974年11月26日、記事掲載から2か月、角栄は総理大臣辞職を表明
1976年2月、ロッキード事件で逮捕
保釈金を払い、釈放されると逮捕から5か月後の総選挙に立候補し、トップ当選を果たす
しかしロッキード事件の裁判は長引き、自民党を離党、無所属となった
最大勢力だった田中派の議員は、それぞれ分立
事務所に人が寄り付くことも少なくなった
1985年2月27日、大量の酒の飲みすぎによる脳卒中で角栄が倒れる
1か月の入院が余儀なくされた
田中家(田中眞紀子)の意向で事務所閉鎖を発表
1985年12月、佐藤昭新事務所 政経調査会を設立
理事には、小沢一郎や羽田元総理らが名を連ねた
昭は、角栄が復帰するまで、自ら政治団体を主宰し、田中角栄の城を守り抜こうとした
1993年12月16日、田中角栄死去
日本全国から人が押し寄せたが、昭は葬式に行くことも亡骸に会う事もできなかった
2010年3月11日、佐藤昭は東京の病院で息を引き取った
葬儀は家族葬で行われ、参列した政治家は、すでに引退していた一人だけだった

(14)

アメリカの天才科学者:シーシー・ムーアが考案
 
DNA分析サイトとは、自分のDNA情報を登録すると
近いDNA情報を持った別の登録者を特定するサービス
生き別れになった親族や血縁のルーツを把握する目的でアメリカで流行している
 
1、捜査は、犯人のDNA情報を分析サイトにアップロード
2、DNAがマッチした相手=犯人の遠い親戚の人物を特定
3、次に犯人の親戚にあたる人物の家系図を作成する
それは、一般的な数世代の家系図ではなく
200年以上も遡った数千人規模の壮大な家系図
家系の情報は、Facebook、Twitter、InstagramなどのSNS、
古いモノは婚姻に関する新聞記事からパズルのピースを集めていく
数千人のうち犯人の世代は、数十名
そこから年齢、性別など犯人像と一致する人物を絞り込む
4、絞り込んだ人物のDNAが、犯人のDNAが一致すれば、犯人確定となる
 
この操作方法は、これまで全く捜査線上になかった人物を一瞬にして炙り出せる
 
この操作で犯人の身元特定に成功した未解決事件は、33件も解決した

(4)

●哺乳類の中で人間だけが、食べ物をのどに詰まらせる
 
人間以外の哺乳類は、鼻だけで呼吸しているので、
鼻から入った空気は肺に、口から入った食べ物は胃に直接送られる
しかし人間は気道と食道が途中まで一緒
その蓋が道をふさぐことで食べ物は食道へ、空気は気道へ、振り分けている
この切り替えが上手くいかなかった時、食べ物がのどに詰まる
最悪の場合、命を落とす危険性もある
 
食べ物をのどに詰まらせるリスクと引き換えに、
人間は声を手に入れた
肺から出る息で声帯を振るわせて音を作り、
口の中で響かせることで様々な音を出すことができる
これが言葉になる
動物も鳴くが、食道と気道が別々になっているため、
声帯で作られた音が鼻に抜ける
そのため人間のように複雑な音を作ることができない

(3)

スポンサード リンク