名所/史跡」カテゴリーアーカイブ

日本三古湯の一つである有馬温泉
この有馬温泉の付近には、火山が存在しない
 
●火山が近くにない有馬温泉に温泉が湧くワケ
フィリピン海プレートが、ユーラシアプレートに
沈み込む際、海水も一緒に引き込まれる
引き込まれた海水は、マントルの熱で蒸発し
水蒸気となって地上に噴出する
その場所が、有馬温泉
 
●有馬温泉の歴史は古く、昔から皇族・貴族らに愛されてきた
 
日本最古泉とも言われる
631年に舒明天皇が3か月滞在したことが日本書紀に見られる
奈良時代には、僧 行基が温泉寺を建立
清少納言は、枕草子で有馬温泉に言及している
1176年に、後白河法皇と建春門院が御幸
1192年に、僧 仁西が戦乱で荒廃した有馬温泉に、
熊野十二神将に準え、十二軒の湯治宿を建て、
湯治場としての原型を作った
豊臣秀吉は有馬を愛し何度も訪れ、
更に温泉や周辺の改修を行った

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♪せっせせーのよいよいよい アルプス一万尺
♪コヤリの上で アルペン踊りを さあ踊りましょう
 
●童謡「アルプス一万尺」のコヤリとは?
 
日本山岳協会:八木原國明によると
童謡「アルプス一万尺」のアルプスは、日本の槍ケ岳のこと
山の標高は、3180m
1尺=約30.3㎝なので1万尺は、約3030mのこと
 
槍ヶ岳の山頂部分は、尖っている槍に似ていることから大槍と呼ばれている
その少し手前の尖った部分を小槍と呼ばれている
 
コヤリは、断崖絶壁の超危険な場所
間違いなくアルペン踊りは、踊れない
 
この曲は、元々古いアメリカ民謡で独立戦争の時にも歌われた曲
日本に伝わったのち、登山家たちが冗談で替え歌にしたモノが
童謡「アルプス一万尺」として世に広まった
 
良く歌われる歌詞は1番で、29番まで存在する

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大阪歴史博物館:大澤研一によると
●大阪城の石垣は、昆布のぬめりを利用して運ばれた
 
昆布を水で戻すと、ぬめり成分が出てくる
大阪城築城の際、巨石を運ぶため、
昆布を丸太の下に敷き、ぬめりを潤滑剤にしていた
 
この時 もたらされた大量の昆布は、
胃袋を満たすためにも使われ、
これまで大阪に無かった昆布出汁の文化が
根付いたと言われている
 
昆布のぬめり成分は、アルギン酸という食物繊維
腸内環境を整え、便秘が解消、ぽっこりお腹に効果的

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フランス パリのエッフェル塔
1889年、パリ万博のためセーヌ河畔に建設された
設計者は、ギュスターヴ・エッフェル
建設を受託したエッフェル社の代表でもある
 
●エッフェル塔には、エッフェル一族の部屋がある
それは地上276.13mにある最上部の一室
現在は、当時の様子を再現したろう人形が展示されている
 
その部屋でエッフェルは、気象観測、
天体観測、生物学的観測、無線逓信研究を行い、
1903年、70歳をすぎて改めて風の制御に関する研究にとりかかり、
1909年、エッフェル型と称される風洞を建設した

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富士屋ホテルの建築様式は独特
屋根は神社や白などに用いられた千鳥破風や
唐破風など日本ならではの造りが施されている
館内の至るところに和の彫刻
入り口には日本最古の回転扉
内観はモダンな雰囲気が漂う外国のような空間
当時、数カ月かけて来る外国人のために
荷物の量に合わせてクローゼットは広く設計され、
身長の高い外国人に合わせて、
平均より10㎝高くドアノブが設置されている
 
●箱根 富士屋ホテルは、20年間 日本人が宿泊禁止だった
 
明治26年~大正元年までの20年間、
富士屋ホテルの創業者:山口仙之助が
外国人のみの受け入れを行ってきた
明治の開国以後、日本の金が大量に海外に流出した
何とか外貨を獲得したいと、
外国人の金をとるを以って目的とする富士屋ホテルを開業
慶応義塾大学で学び、福沢諭吉から
実業家になることを勧められた人物
山口は、箱根の旅館のライバルである奈良屋旅館と話し合いした
「富士屋ホテルは外国人専用にしたい、日本人は全て奈良屋旅館に回します。この条件を受け入れてくれるなら、毎年 報酬を支払いますよ」と

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●ピサの斜塔は、建設途中で傾き始めた
 
ピサの斜塔の前にある看板では、
傾き始めた様子が説明されている
 
工事が始まった頃には、まっすぐ建っていたが、
3階くらいまでの高さまで塔ができたとき、
地盤沈下により、塔が傾いてしまった
その後、軌道修正し、何とか倒れずに完成させた
そのため途中から角度が変わっている
 
高さは地上55.86mのピサの斜塔だが、
元々の建設計画では、現在あるものよりも
遥かに高い塔ができる予定だった

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●神田明神の天野屋は弟の仇討ちのために開業された
 
神田明神の大鳥居にある甘酒が頂ける天野屋
創業は170年、江戸後期の弘化三年、1846年
 
丹後 宮津藩の天野新助は、江戸の千葉道場で腕を上げ、
妬まれて暗殺された弟の仇討ちのために
店の前の通りは、京都と江戸、日本橋を結ぶ中山道
この地にいれば仇に会えるだろうと
武士から町人となり、店を開いた
 
結局、仇討ちはかなわず、どぶろくを作り始めた
のち自家製の米糀で甘酒を作るようになり、
170年間 継がれている

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●地獄に通い閻魔大王に仕えていた小野篁
 
小野篁(おののたかむら)
遣隋使で有名な小野妹子の平安時代の子孫で、
昼は天皇に仕え、夜は閻魔大王に仕えていた
夜な夜な、六堂珍皇寺の井戸から地獄に通い、
地獄の裁判を手伝っていたと伝えられる
身長190㎝、威圧感と反骨精神で人々に恐れられていた
 
六堂珍皇寺には、小野篁が作ったとされる閻魔大王像と
小野篁像が安置されている
年に2度、特別参拝期間のみ拝められる

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●日本史上最恐の怨霊:崇徳天皇を祀る白峯神宮
その門には、皇族下馬下乗の立て札がある
皇族でも馬や輿を降りなければならない
祀っているのは、第75代 崇徳天皇
1156年、政権争いに敗れ、四国に流された崇徳天皇は、
死者の冥福を祈り、自らの血で写経し、
朝廷におさめようとしたのだが、
朝廷から破られた写経がつき返された
これに怒った崇徳天皇は、舌を噛みきり
「日本国の大魔縁になる」と言い残し亡くなったと伝えられている
その後、平家、源氏と続き、徳川まで政権が天皇家に帰ってこなかった
 
大政奉還で政権が帰ってくると、
明治天皇が最も心配したのは、崇徳天皇の呪いだった
そこで崇徳天皇の呪いを鎮めようと1868年に創設されたのが白峯神宮

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●鬼と呼ばれた僧侶:元三大師
 
平安時代、比叡山延暦寺を建て直した実在の僧侶
その昔、平安京を襲う疫病を、元三大師が鬼の姿に変わり、
疫病を振りまく神々を追い出した
その伝承は今でも各地で生きており、
厄除けのお札として親しまれている
元三大師が鬼の姿に変化した像が廬山寺に安置されている
 
その像は、見る人の心を見透かす像として知られている
元三大師の鬼大師像を見て、
笑っていると思った人は、心が穏やかな状態
厳しい顔に見える人は、悩みがあると言われている
 
ちなみに、元三大師は寺社のおみくじを考案したとも言われている
昔は僧侶が1~2時間かけて答えていた

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