蓮根の間にからしがたっぷりと詰まった熊本名物
熊本は、蓮根の産地として有名ではない
熊本の蓮根収穫量は、全国6位
●からし蓮根が熊本の名物になったワケ
 
江戸時代、肥後熊本藩の初代藩主 細川忠利は病弱だった
側近の和尚が、栄養価の高い蓮根を食べさせようとして考案した
増血効果のある蓮根に発汗 血行促進につながるからしを入れ、
卵の黄身で包み、菜種油で素揚げした
からし蓮根を大変気に入った忠利は、体調が良くなった
殿様しか食べられなかったからし蓮根は、
明治に入り、庶民も口にするようになった
名物になったきっかけは、蓮根の穴
細川家の家紋 九曜紋に似ていたことから
縁起の良い食べ物と評判になり、
熊本では冠婚葬祭やおせち料理の定番メニューになった

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1年間でちくわに何円使ったランキングでは、
1位:鳥取市 3534円
2位:徳島市 2881円
3位:松山市 2428円
東京都23区は、1262円で43位
鳥取は、23年連続1位
 
●鳥取市が、日本一ちくわを食べるワケ
 
江戸時代、財政が厳しかった鳥取藩は日本海に面しているが、
漁港を整えられず、あまり良い漁港がなく魚が獲れなかった
 
そこで少ない魚を有効に使うようにたくさん収穫できた大豆と混ぜ、それを日持ちするように棒に巻き付けて焼いたのが、とうふちくわ
その文化が現在まで残り、ちくわは鳥取のソウルフードになった

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全国にチェーン展開する 牛丼屋 すき家
その店名の由来は、好きになっていただきたいと、すき焼き
 
●すき家の外壁がレンガ造りになっているワケ
 
すき家の創業の地は、横浜
横浜は明治時代に牛肉文化が広まった地でもある
 
外壁がレンガ造りになっているのは、
横浜赤レンガ倉庫をイメージしたから
どんぶりにも赤レンガ倉庫が描かれている

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夫が家事をやってくれるようになる伝え方が、
●掃除か洗濯か、どっちかお願いできる?
人は2択にされると思わずどっちか選んでしまう
強要ではなく選択の自由を与える
 
便座の上げっぱなしを注意する伝え方が、
●トイレの蓋って開けっ放しにしてると金運下がるらしいよ
夫からするとトイレの蓋を閉めるのは面倒
だけど金運が下がる方がもっと嫌
 
ポストの迷惑チラシ激減の張り紙が、
●不要なチラシ着払いで返送します
 
●一緒にやってみない?
人は一緒に誘われただけで、やってもいいかなという気持ちになる

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高校野球のエースナンバーは1
トランプでもエースは、1を意味する
 
●プロ野球で18がエースナンバーになったワケ
 
野球の背番号の始まりは、ニューヨークヤンキース
当初は、打順の番号が使われていた
 
18番がエースナンバーなのは、日本だけ
歌舞伎の世界では最も得意とする演目を十八番(おはこ)という
それに倣い、プロ野球でもチームで
一番秀でたピッチャーに18番を与えるようになった

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●将棋の駒が、王将と玉将に分かれているワケ
 
平安時代、将棋が誕生したころは、王将は存在せず、玉将だった
玉将の玉には、宝石、宝物という意味がある
玉将を王将に変えたのが、豊臣秀吉
将棋好きだった豊臣秀吉が、王じゃなきゃ嫌だと言ったため、
秀吉側の玉将を王将にした
 
玉将以外にも宝物を意味した駒がある
金将、銀将はもちろん、桂馬は肉桂(シナモン)、
香車はお香に由来しており、どれも平安時代には貴重なもとされていた

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●日本の自動車が左側通行になったワケ
 
江戸時代、ほとんどの人が右利きだったため
武士たちは刀を左側にさしていた
武士同士が鞘をぶつけることは、決闘の申し入れを意味したため
ちょっとした不注意で切り合いに発展しかねなかった
そこで鞘がぶつからないように左側を歩くルールが定着した
そのルールが、明治時代に馬車や人力車にも適用され
 
明治14年、馬車や人力車がすれ違う場合は、
左に避けることと警視庁が明文化
大正9年、道路取締法で自動車の左側通行が定められた

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浅草 浅草寺の雷門の大提灯は有名だが、
浅草寺の本堂にも大提灯があり、「しん橋」と書かれている
ちなみに宝蔵門の提灯には、小舟町と書かれている
 
●浅草寺本堂にある大提灯に新橋と書かれているワケ
 
浅草寺の大提灯は、奉納した人が好きな文字を書くことができる
 
浅草寺は東京で最も古い寺で
浅草寺の周りは江戸随一の遊興地だった
江戸で最も宣伝効果が高かった浅草寺に
提灯を掲げることで新橋を知ってもらいたいと
一番最初に大提灯を奉納したことから今もその奉納提灯が残っている

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1970年、大阪万博で披露された岡本太郎の太陽の塔
●太陽の塔には、幼少期バージョンがある
 
その幼少期バージョンは、愛知県にある日本モンキーパークにある
看板には、“ひろびろとした丘の上に“若い太陽”が生まれる 日に日に新しく生まれ変わる われわれの生命の象徴 金色に輝く顔はおおらかにバイタリティを放射する 赤 青 緑の粧いは濃い青春の彩りである 岡本太郎”と書かれている
正式名称は、若い太陽の塔
1969年に完成した
大きさは26m
1年後に大阪万博で披露された太陽の塔は、70m

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