元々は、売るときも「合」、炊くときも「合」を使っていた
昭和初期まで米を売るときは升で量り、
米を釜で炊くときも同じように升で量っていた
升の単位である「合」をどちらも使っていた
昭和34年(1959年)に元々日本にあった合などの計量単位が禁止となり、
国産単位である㎏を使うように法律が変わった
それまで米屋は、升を使って体積で売る量を量っていたが、
国際取引では米を売る量を重さで量っていたため、売るときも重さで量るように
 
●「合」の使用が禁止されたのに、現在でも炊くときは「合」を使っているワケ
現在でも合を日常的に使っているのは、電気炊飯器の普及にある
昭和34年に合が禁止されたことで、
炊飯器も合を使わなくなり、国際単位のccを使った
料理に使う計量カップが200㏄に統一されたことで
1カップ200㏄の米専用の計量カップをつけて販売し始めた
そのため釜に入れる水の量を示すメモリを、
計量カップ一杯の200ccの米に対し、1メモリまで水を入れる設定にした
しかし当時主婦たちは、※専用の計量カップがついていたにもかかわらず、
それを使わず、使い慣れた升で量る人が多くいた
升の一合は、㏄にすると180ccしかない
それを知らなかった主婦は、米200㏄に対しのメモリまで水を入れたため、
ご飯がべちゃべちゃになった、というクレームが殺到
そのため昭和54年発売の炊飯器から馴染みのある「合」の単位に戻し、
現在でも炊飯器は合で販売し続けている

(315)

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広辞苑は、1つの言葉でも複数の意味を解説している場合があり、
①②③…と順番をつけて記載している
1955年の発行当初以来、記載順にルールを設けている
 
●広辞苑の言葉の意味を記載する順番ルール
 
1つの言葉に複数の意味が発生した場合、
現代の使われ方を優先せず、元々の古い意味から順番に記載している
これによって言葉の歴史を辿れるようになっている
 
例えば、「優しい」という言葉は、
①身も痩せるように感じる。恥ずかしい。→奈良時代
②周囲や相手に気をつかって控えめである。つつましい。→平安時代
④おだやかである。すなおである。→現代

(3824)

街の景観、二酸化炭素の削減など
様々な理由から人が意図的に植えた街路樹
 
街路樹の歴史は古く、奈良時代に当時の天皇が
街道に木を植えるのを命じたのが始まりとされる
それは旅人のためだった
 
その目的は2つあり、
1つは、夏、木陰で暑さをしのぐため
もう1つは、飢えをしのぐため
昔は食料が乏しく、旅すがら店も多くなかった
そこで旅人の空腹を満たすため実のなる樹を植えた

(379)

週刊誌でよく見かける袋とじ
その歴史は古く、1930年代にイギリスで誕生した
その目的は、現在とは違う
 
最初に袋とじを取り入れたのは、
推理小説「マイアミ沖殺人事件」
推理小説の結末を袋とじにして、
犯人や謎解きを先に読めないようにした
その袋とじには、
“あなたが分かるまでこの紙を破るな 証拠が書かれている”と書かれていた

(1172)

板チョコには、四角く区切られた溝がある
この溝は、食べやすいサイズに割るためだけにつけられたものではない
 
●板チョコに溝をつけたワケ
 
明治カカオ開発部:藤原成一氏によると
溝をつけたのは、チョコレートを早く固めるため
板チョコは、液体状のチョコレートを型に流し込み、冷やして固める
溝がなく平面だと中心まで固めるのに時間がかかる
溝を入れると表面積が多くなり、均等が早く固まる

(179)

コーヒーカップやティーカップには、
取っ手がついているのが、一般的だが、
湯飲み茶碗には取っ手がついていない
 
●湯飲み茶碗に取っ手がついていないワケ
 
湯飲み茶碗を手で持つことで、お茶の飲み頃の温度を確認するため
日本茶は、約60℃が適温
湯飲み茶碗を盛った時に、人肌くらいの温度を感じた時が、
お茶の温度が60℃くらいで飲み頃とされている

(153)

奈良公園には、野生の鹿が約1300頭がいる
しかし公園には、本来あるはずの鹿の糞がない
頻繁に掃除をしているわけでもない
 
その理由は、
●奈良公園に鹿の糞がないのは、糞虫が食べてしまうから
糞虫とは、フンコロガシなど糞を食料とする昆虫
 
1300年以上に渡り、多くの鹿が暮らす奈良公園は、
日本で最も多く糞虫が生息している
その種類は、50種類に及ぶ
四季それぞれに活躍する糞虫がいるため
公園が一年中キレイに保たれている

(187)

武闘派として恐れられた独眼竜 伊達政宗
その一方で茶道や脳にも精通していた
さらに料理通の正宗は、トイレ付きの小部屋で毎日
朝夕2時間、トイレに籠り、その日の献立を考えるのが日課だった
正宗自ら炊事場に立ち、料理を作ることもあったという
 
1628年、徳川秀忠を招いた時、
この日のために献立や料理法を練りに練っていた伊達政宗は、
料理を作り、盛りつけ、配膳まで藩主である正宗が一人で行った
 
●現代に伝わる豪勢なおせち料理は、伊達政宗が作った
元日料理とは、現在のおせち料理
当時は、雑煮と数品を膳にした質素なモノだった
これに納得していなかった正宗は、現在の豪勢なおせち料理に変えた
現在では珍しい白鳥や貴重なクジラの肉も使っていた
その献立が、現在の一般家庭に伝わるおせち料理の原型と言われている
 
●ずんだ餅は、伊達政宗が考案した
先代を代表する銘菓 ずんだ餅
一説では、伊達政宗が戦に使う陣太刀で枝豆をすり潰したことから、
「じんだ」転じて「ずんだ」になったと言われている
 
●伊達政宗は、眼帯をつけていない
正宗が眼帯をつけている姿を初めて描いたのは、1942年の映画「独眼竜政宗」
この映画から伊達政宗のトレードマークが、眼帯になった

(1070)

東京医科歯科大学 上村公一 教授によると
人間の顔にはたくさんのパーツがあり、
その中で親に似やすいパーツと似にくいパーツがある
似やすいパーツは、大きく分けて目、鼻、アゴ(輪郭)の3つ
親と顔が似ている人は、その3つのパーツが似ており、
親と顔が似ていない人は、その3つのパーツが似ていないこと
 
目、鼻、アゴ(輪郭)は、骨で出来ている
骨の構造は、親から遺伝しやすい
 
親に似にくいパーツは、頬や唇
このパーツは、骨ではなく筋肉で出来ている
頬は、食べ方や噛み方で筋肉の付き方が変わる
唇も呼吸の仕方で形が変わる
子供の頃、顔が似ている親子であっても
月日が経てば経つほど徐々に似なくなっていく可能性がある
 
●男の子は母に似て、女の子は父に似る、は、科学的根拠がない
それぞれ目、鼻、アゴが、父に似るか、母に似るか、その確率は半々

(189)

客を呼び込むために店の前に盛り塩を置く風習は、
2200年前、秦の始皇帝の逸話が関係している
 
一代で中国大陸を統一した始皇帝は強大な権力を持っていた
始皇帝が住む都 咸陽には、
始皇帝の身の回りのお世話係として3000人もの女性が住んでいた
始皇帝は空いた時間があると女性たちの家を牛車に乗って訪ねていた
女性たちは始皇帝に来てもらうために服を着飾ったり
楽器を弾いたりして必死にアピールしていた
そんな中、なかなか始皇帝に来てもらえない女性が、
牛の大好物の塩を家の前に置いた
牛は塩を舐めるのに夢中になって動かず、始皇帝は目の前の家に訪ねて来た
 
その後、盛り塩を置くことで
これまで来てくれなかった始皇帝が来てくれたという逸話が
中国全土に広まり、それがいつしか店の前に盛り塩を置くことで、
これまで来なかった客が来てくれると言われるようになった
 
奈良時代に日本に伝わり、現在でも客を呼び込みたい店では盛り塩を置いている

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