●一人の銀行員の左遷がきっかけで、宝塚歌劇団が誕生した
 
三井銀行に勤めていた小林一三は、何度も左遷され、
ここにいても望みがないだろうと
鉄道会社  箕面有馬電気軌道(現 阪急電鉄)に転職した
 
箕面有馬電気軌道の売上を増やすために、
沿線に乗客を増やすための施設 宝塚新温泉(プール)を造る
しかしプールの運営方法など知らないため上手くいかなかった
水を抜いたプールで何かできないか、と考え、
プールに客席を並べ、脱衣所を舞台にして始めたのが、
宝塚歌劇団の前身 宝塚少女歌劇

(327)

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●塩コショウには賞味期限があるが、塩には賞味期限がない
 
実際、塩のラベルを見ると、賞味期限の欄がない
 
食品の劣化は、水分や酸素、
細菌などの微生物など様々な現認によって引き起こされる
 
塩は無機物のため腐らない
コショウは有機物、風味も落ち劣化する
塩ではなくコショウに賞味期限を設定する必要がある

(282)

運動会の定番曲「マイム・マイム」
実は、マイム・マイムの歌詞は、運動会と関係がない
●マイム・マイムは、水を掘り当てた喜びを歌う曲
そもそもマイム・マイムは、1940年ころにパレスチナ地方(現在のイスラエル)で生まれた踊り
ヘブライ語で旧約聖書の一節が歌われている
歌詞の意味は、
“あなたたちは喜びのうちに 救いの泉の水を汲む 水、水、水、水を!救いの泉の水を汲む”
この曲は、砂漠地帯で水を掘り当てたときの喜びを歌った曲
 
●日本の運動会で踊られるようになったワケ
第二次世界大戦後、GHQがフォークダンスを体育の授業に取り入れたのがきっかけ
その時、指導に当たったのが、民間情報教育官のウインフィールド・ニブロ
ニブロが体育の授業に導入したのが、自分の趣味だったフォークダンス
マイム・マイムやオクラホマミキサーなどの世界の民謡が体育の授業にピッタリだと定着し、いつしか運動会でも踊られるようになった

(185)

舌には、味蕾という組織があり、
そこで甘味、苦味、酸味、塩味、旨味の5つの味を感じている
2019年1月、第6の味覚である脂味を感じる神経が発見された
この脂味が分からない人ほど、太りやすい研究結果が出ている
 
普段から脂肪分の多いものを食べすぎると
舌が脂の味に鈍感になり、食べても満腹感が得られにくくなる
その結果、普段の食事が食べすぎの状態となり、太ってしまう
 
味覚が正常かどうかの目安は、
白米をそのまま食べて、甘味や旨味を感じることができること
ふりかけやおかずがないと美味しく食べられない人は、要注意
 
舌の機能が低下していても普段の食事の調味料を減らせば、
脂味に敏感になれる舌に10日でリセットされる

(218)

●相撲界を角界というワケ
角界と呼ばれるようになったのは、相撲が読みにくかったから
元々 すもうは、相撲と角力という2つの漢字があてられていた
角力とは、力比べという意味で、中国の言葉
 
江戸時代、相撲は庶民が読みにかったため、簡単な角力が定着し、
相撲界を角界と呼んでいた
 
●歌舞伎界のことを梨園というワケ
中国の皇帝が、梨の木のある庭で音楽や舞踊を教えたという故事から
音楽や舞踊を学ぶ人を梨園の弟子と呼ぶように
江戸時代の漢学者が演劇界を梨園と呼んだのがはじまりと言われている

(235)

ドタキャンとは、土壇場で予定をキャンセルすること
●ドタキャンの土壇場とは、首切りの刑場のこと
江戸時代以前、土を盛って築いた場所を土壇と呼んでいた
江戸時代、土壇で罪人を横たわせて
首を切る事から土壇場と言われるように
そこから、どうにもままならない、行き詰まる、
最後の決断を迫られることを土壇場が使われるようになった
 
●勉強とは、元々 学習するという意味ではなかった
勉強の本来の意味は、気が進まないことをしかたなくすること
勉強を学習するという意味で使われるようになったのは、明治以降から

(128)

●こどもの日は、母に感謝する日
国民の祝日に関する法律 第二条によると
こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、
母に感謝する、と記されている
 
ちなみに5月第2日曜の母の日は、アメリカから入ってきた風習
 
●端午の節句とは?
昔の日本は、日付を干支で表していた
節句とは、季節の節目となる日
なので端午の節句とは、最初の午の季節の節目の日
奈良時代から続いている風習で、江戸時代は祝日をなっていた
5月5日は、季節の節目を祝う日なので今でも こどもの日を端午の節句とも言う
3月3日の雛祭りや7月7日の七夕も節句の一つ
 
●子供の日に鯉をあげるワケ
急流を登りきると龍になるという中国の伝説から鯉は出世の象徴
子供の成長と出世を願って鯉をあげる
 
鯉のぼりの上についている回転球と矢車
回転球は、神様を呼ぶ目印
矢車は、魔除け
鯉のぼりとは、神様に ここに男の子がいますとアピールするためのもの
 
5色の吹き流しは、陰陽五行説で万物を表している
 
江戸時代、武家の家では家紋入りののぼりをあげて子供を祝っていた
しかし町人には、それが許されなかったため、
代わりに鯉のぼりをあげたのが鯉のぼりのはじまり

(105)

浜松駅から徒歩20分の所にある浜松元城町東照宮(静岡県浜松市中区元城町111-2)
社務所もない宮司も常駐しない無人の神社だが、出世のパワースポットとして有名

元城町東照宮 (2)

鳥居の東照宮を書いたのは、徳川宗家18代の子、徳川家広
元城町東照宮手水舎
手水舎には、眠り猫、その天井には翼がある龍が装飾
社殿の左奥にあるご神木は、珍しいユーカリ
 
浜松元城町東照宮の50m四方には、曳馬城あった
 
●徳川家康の起点となった地
1570年、遠江地方を攻略する拠点として曳馬城に入城した徳川家康
城の名前、曳馬が「引く馬」に通じるということで名前を「浜松城」に変更
浜松城は、曳馬城を城郭に含まれるように普請された
1573年、武田軍が侵攻してきた三方ヶ原の戦いで大敗した家康は、
浜松城に逃げ帰り、空城の計を図り、警戒心を煽り事なきを得た
ここは後の天下人の起点の地
 
●豊臣秀吉が最初に武家となった地
豊臣秀吉の無名時代が記された古文書 太閤素生記
太閤素生記とは、武田信虎の旧臣土屋昌遠の孫であり、徳川秀忠の馬廻りの武士:土屋知貞が、その父や養母(秀吉の出身地である尾張国中々村の代官・稲熊助右衛門の娘)、飯尾豊前守の娘である祖母キサから伝え聞いた話をまとめた書物である
太閤素生記によると、織田信長に仕える前、16歳の秀吉は、曳馬城本丸で栗を食べる猿を真似て、今川氏の家臣、松下之綱に可愛がられ、武家奉公できるようになった
2人の天下人が人生のどん底から這い上がるきっかけが、同じ場所だった
 
●本田宗一郎
本田技研工業の前身となる旧本田技術研究所は、1946年に曳馬城跡の北 山下町(徒歩3分)に設立された
本多技研
翌1947年に発売した自転車用補助動力エンジン「ホンダA型」がヒットし、後のホンダの基礎となった
 
その地からほど近い神社である浜松元城町東照宮には、間違いなく参拝していたであろう

(214)

シカゴ大学 ジェームズ・J・へックマン教授の調査によると
●幼稚園に通わなかった子供は、通った子供と比べて将来 年収も持ち家率も低い
 
3~4歳の子供123人を幼稚園に通わせるグループと
通わせないグループに分け、その後どのように成長するかを比較
幼稚園に通ったグループの子供は、歌のレッスンや読み書きを週5日、2年間受けた
 
その後、40年間も追跡調査
 
幼稚園に通ったグループは、通わなかったグループと比べて、
年収が60万円多く、持ち家率は3倍も多かった
さらに危険ドラックの使用率など犯罪率も高くなることが分かった

(137)

ほとんどのうなぎ屋のうな重は、うな丼に比べて、量が多いだけの差しかない
 
そもそも うなぎは、5000年前の縄文時代から食べられていた
 
江戸時代に醤油が誕生したことで、醤油ダレにつけた うなぎの蒲焼きが生まれた
味の濃い うなぎの蒲焼きは、ご飯に合うことから
ウナギの蒲焼きをご飯にのせた うな丼が誕生
江戸の町に、800軒のうなぎ屋ができ、
人気店をまとめたうなぎ屋番付表も作られるほど庶民に親しまれていった
 
●うな重は、温かいまま届けるために誕生した
明治時代、洋食中心の役人がうなぎ屋にうな丼の出前を注文した
しかし店主が役人の家に配達したころには、うな丼が冷めてしまう
正月などに使われていた重箱にご飯を詰めて うな重を作り、
当時、ご飯を五右衛門風呂の上で保温していた方法を応用し、
お湯を入れた重箱を挟んで配達し、冷めないように工夫した
 
温かいまま届けるために生まれたうな重だったが、
見た目がうな丼より高級感があり、庶民の間でも人気となり、
店主は、うな丼とは別にうな重も店で提供し始めた
お重にうな丼の蒲焼きをそのまま乗せるとうなぎが小さいため、
お重に合わせてうなぎの量を増やして、値段を上げた

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