Category Archives: 歴史

東京 五反田にある かむろ坂
品川百景にも選ばれた桜の名所となっている
 
江戸時代初期、元鳥取藩士の浪人:平井権八は、
吉原の三浦屋の遊女:小紫と昵懇の仲となる
小紫は、美貌と教養を兼ね備えた太夫という最高位の遊女
遊女の見習いである少女:かむろが小紫の世話をしていた
身寄りのない小紫とかむろは、まるで親子のような関係だった
やがて困窮した権八は、小紫に会いたいがために、
見ず知らずの人を切り殺し、金品を奪うように
命を奪った人数は、130人に及ぶ
逮捕された権八は、1679年12月5日、品川 鈴ヶ森刑場で刑死した
刑死の報を受けた小紫は、
目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる東昌寺の墓前で自ら命を絶った
この「後追い心中」は、
江戸で初めて起きた男女の心中事件と言われている
 
親同然の小紫を探しに行ったかむろは、小紫の死を目撃する
その帰り、ならず者に遭遇
男から必死に逃げたが、池に身を投じ、自ら命を落とした
そんなかむろを忍び、村人たちは、
池の近くにあった坂道を「かむろ坂」と名付けた

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●江戸時代、士農工商という身分制度はなかった
 
そもそも江戸時代の身分は、支配階級の武士と、
商人や農民などの武士以外の身分しかなかった
 
明治時代になり、全ての人々が平等だと強調するために
明治政府は、江戸時代は職業で差別された士農工商という身分制度があったとした
 
元々 士農工商という言葉は、3000年前の中国の言葉で
あらゆる職業をさす国民という意味だった

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悪法として知られる徳川綱吉の生類憐れみの令は、人々を苦しめたと伝えられてきた
コオロギや鈴虫を打った商人は投獄、
自宅の井戸に猫が落ちて死んだという罪で島流し、
蚊が止まった顔を叩いただけで島流しなど、本当の出来事として伝えられた
 
しかし近年、長野県の農村で発見された文書から生類憐みの令の本来の姿が見えてきた
そこには、幼少で親を亡くした子供は、
兄弟や親類縁者が責任をもって養育すべし、と書かれていた
綱吉は、捨て子を禁止したり、子供を殺してはいけない、
行き倒れた人を助けなければいけない、など社会福祉に重きを置いていた
 
●天下の悪法として知られる徳川綱吉の生類憐みの令の本来の姿
綱吉は、他人を思いやるなど人間性を重要視し、
家族や社会との絆を尊ぶ儒教の教えを大切にしていた
 
綱吉は、人の命を大切にするため武士に与えられていた特権 切り捨て御免を否定した
綱吉が儒教を世に広めたことで現在の平和的な日本人の気質を作った
 
その綱吉の考えをもとに生まれた風習が、現在でも残っている
家族との絆を大切にするために先祖と同じ墓に入る
江戸時代初期は、人が死ぬと個人個人で埋葬されていたが、
先祖と同じ墓に入るようになり、これが現在の「お墓参り」につながっていく
子供を大切に考える綱吉は、子供の成長の節目を祝う風習「七五三」も生んだ
綱吉が制定した服忌令という法律が元となって生まれた「忌引き」
野犬の横行と狂犬病を防ぐために中野の広大な犬屋敷に犬を集めた
 
多くの庶民が処罰されたと伝えられてきたが、実際に処罰されたのは、
著しく命を粗末にした武士を中心に70名ほどだったとのちの研究で分かった
 
●綱吉の生類憐みの令が悪法とされたのは、甥の家宣が原因
綱吉が死んで将軍を継いだのは、甥の家宣
綱吉と家宣には、生前から確執があった
そのため家宣は綱吉が行った数々の政策を批判、
さらに生類憐みの令を悪法と断じて廃止した
これがきっかけで名君であった綱吉のイメージは、反転する
 
ヨーロッパで初めて日本を詳しく紹介したドイツ人医師のケンペルは、綱吉を下記のように記している
非常に英邁な君主であるという印象を受けた
彼のもとで全国民が完全に調和して生活している
生活習慣や芸術、道徳の面であらゆる国の人々を凌駕している

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織田信長に残忍なイメージがついたのは、
誇張された後世の軍記物語や編纂物による影響が強い
信長について書かれた史料は、2種類
1つは、400年前、信長の家臣が実際に見聞きして書いた資料「信長公記」
もう1つは、信長が死んだ後、
江戸時代の儒学者が信長公記をもとに書いた資料「信長記」
信長記は、大幅な脚色がされ、小説のような読み物になっている
現在の残忍なイメージの信長像は、信長記によって伝わっている
 
●織田信長は、実は優しかった
信長公記には現在の信長のイメージと違う姿が描かれている
 
ある日、信長一行が京都へ向かう道中、道端で汚らしい格好の男を見つけた
先祖が犯し祟りで体が動かくなったことを村人から聞くと、
次の日、村人たちに反物を与え、
男に小屋を造り、米と麦を与えるように世話を頼んだ
 
桶狭間の戦いの前哨戦に勝利したときのこと、
戦いによって家臣の多くが討ち死にした
それを知った信長は、勝利を喜ぶより、泣き崩れたという
 
ついに桶狭間の戦いで総大将の今川義元を破った信長
家臣から義元の首を献上された
捕らえた敵兵に首を持って駿河に戻し、
敵将と兵たちを弔うため供養塚を作らせた
 
この真実が書かれた信長公記は、
身分が高い人しか持っていなかったため、伝わりにくかった
より誇張されて書かれた読み物としての信長記は、瞬く間に庶民に広まった
 
●長篠の戦いの三段構えも、出展は小説のような信長記から

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●江戸時代前期まで日本人は、お風呂に着物を着て入っていた
 
その着物は、湯帷子(ゆかたびら)と呼ばれていた
 
江戸時代中期頃から裸で入浴するようになり、
湯帷子は、次第に夏の着物 浴衣となり、
入浴後の外出着になった
 
なので浴衣は、浴の衣の漢字が使われている

(9)

弥生時代は、日本列島における時代区分の一つであり、
紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代
縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代
 
●弥生時代の弥生の由来は、東京の弥生町
東京都文京区弥生町にある弥生二丁目遺跡から
発掘された土器が発見地に因み、
弥生式土器と呼ばれたことに由来する
千住で発見されれば、千住時代となっていたかもしれない

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1966年に天平神護元年(765年)に書かれた木簡が
平城京跡で発見された
どの役人が役所の勤務を担当したかを記していた
2016年に赤外線カメラで撮影したところ、
これまで見えなかった部分が浮かび上がった
そこには大属(第四等官) 破斯清道と書かれていた
破斯とは、ペルシャを意味する言葉
 
8世紀、奈良 平城京でペルシャ人が役人として働いていたことが分かった
 
651年、ペルシャではサーサーン朝が滅ぼされ、
次の王朝に政権が移った
国を追われたサーサーン朝ペルシャの人々は、
シルクロードを渡って唐の長安に
そこには唐の文化を吸収するため遣唐使が日本から派遣されていた
唐での日本とペルシャの交流がきっかけとなり、
ペルシャ人が奈良へと渡り、
本人もしくは子孫が役人:破斯清道となったと考えられる

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1863年、京都 新鮮組詰所
隊をまとめ上げるため、土方は局中法度を作った
掟を背いた者は、切腹
切腹したのは、39人に及ぶ
京都における新選組の死因は、
戦場での死亡よりも規律違反による処刑の方が圧倒的に多かった
 
隊士から鬼と恐れられた土方だが、とんでもない女たらしだった
関係を結んだ女性は数知れず
新鮮組のある京都だけでなく、
全国至る場所の女性と関係を結んでいた
さらにタチが悪い事に、
女性たちと遊ぶ金を遊女に負担させていたという
 
新鮮組の活動資金を援助していた小島鹿之助の下に土方から荷物が届いた
各地の女性から土方に届いた大量のラブレターを見せて、自分がモテることを証明した
この1年前に、土方から手紙が届いた
“嶋原では花君大夫、天神、一元。祇園では芸子が三人程います。北野では舞妓の君菊、小楽。大阪新町では若鶴太夫の他に二、三人もおります。北新地では沢山いて筆では書き尽くせません”
モテっぷりを証明したいために、その1年後にラブレターをまとめて送った
 
また現在の足立区加平の綾瀬川で釣りをしていただけで村中の女性が集まったという

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兄 頼朝から命を狙われた義経は、京都を脱出し、奥州平泉に入った
平泉は、少年時代、父親代わりに保護してくれた藤原秀衡が治めていた
秀衡の死後、頼朝の圧力に負けた息子 泰衡に攻められ、1189年4月30日、衣川の戦いで、無念の最期を遂げたとされる
1189年9月、頼朝の狙いは独立王国だった奥州を攻め、義経の死後、25万の大軍を送り、奥州藤原氏は滅亡した
 
しかし義経だと思われ死んだのは影武者
東北各地には、義経が追手から逃れ、落ち延びていったという伝承が残る場所がある
 
平泉→遠野→釜石→宮古→久慈→八戸→十三湊→龍飛と続く
 
宮古市にある判官稲荷神社の縁起には、義経は平泉で討たれず、宮古まで落ち延びたと書かれている
 
久慈には源氏の御曹司が通ったと言われる源道と言う名の道がある
 
八戸には、義経が仏像を奉納したと云われる小田八幡宮、義経の館があったと言われる高館
そして おがみ神社の縁起には、義経は泰衡の襲撃の1年前に平泉を脱出、八戸に上陸。
十数年 八戸に居住し、奥方が死去。追手が迫っておるのを察知し、北を目指して旅立ったと書かれている
 
伝説では義経は龍の背中に乗って対岸の北海道に飛び去った、とされる。その岬の名が龍飛
 
義経の死から600年後、義経の死に疑問を持った三戸光圀は、三度に渡って蝦夷に探検隊を派遣した
その主な目的のひとつが、東北で死なず 北海道に渡った義経の足跡を探すこと
探索の報告によると、アイヌが崇める神、オキクルミ
オキクルミの別名は、ホンカン様
それは九郎判官義経公ではないか、と

(9)

●古代エジプトが滅亡したきっかけは、猫
 
古代エジプトにとって猫は、とても神聖な存在
街の至るところに猫の墓が造られ、
猫の顔をした神を崇めていたほど
もちろん猫を殺すことは絶対に許されない
 
紀元前525年、
それを知っていた敵国であるペルシャ帝国は、
猫を盾にしてエジプトに攻め込んだ
猫を殺せないから反撃できない
結果、戦争に負けて滅んでしまった

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