Tag Archives: 江戸時代

●気象予報士は江戸時代にも存在していた
未来の天気を予報することは、
古代から朝廷に専門の役職がおかれるなど
権力者が担う重要な役割であると考えられていた
江戸時代には、日和見、日知りという気象予報士のような仕事が、
民間で確立し、人々に大きな影響力を持っていた
 
漁村では明日の天気が分からないと漁ができない
天気を知る人は、村の人の運命を握っていた
 
●200年前、雨女は、妖怪だった
雨の日に現れる堕落した神様の姿だという説もある

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アイルランドでは、クローバーは国の国花に指定されている
1500年前、宣教師がキリスト教で大切な三位一体の教えを
三つ葉を使って説いて以来、三つ葉のクローバー=シャムロックは、
アイルランドの聖なる花となった
アイルランドでは国家間の友好のしるしに三つ葉のクローバーを贈る習慣がある
 
●クローバーをシロツメクサと呼ぶようになったワケ
そのクローバーが、初めて日本に入ってきたのは、江戸時代
オランダからの貴重なガラス製品を運ぶ緩衝材として箱の中に詰められていた
そのため白い花が咲き、荷物に詰められていたクローバーを
日本ではシロツメクサ(白詰草)と呼ばれるようになった
四つ葉のクローバーを特別視することも、この頃に伝わった
 
●幸運が訪れる四つ葉のクローバーが発生するワケ
四つ葉のクローバーが発生する仕組みは、人に踏まれるから
成長過程の葉が小さいときに人に踏まれ傷つけられたりすると
そこから分裂し、4つ目の葉が増える
人に踏まれやすい場所の方が、四つ葉のクローバーは発生しやすい

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ほとんどのうなぎ屋のうな重は、うな丼に比べて、量が多いだけの差しかない
 
そもそも うなぎは、5000年前の縄文時代から食べられていた
 
江戸時代に醤油が誕生したことで、醤油ダレにつけた うなぎの蒲焼きが生まれた
味の濃い うなぎの蒲焼きは、ご飯に合うことから
ウナギの蒲焼きをご飯にのせた うな丼が誕生
江戸の町に、800軒のうなぎ屋ができ、
人気店をまとめたうなぎ屋番付表も作られるほど庶民に親しまれていった
 
●うな重は、温かいまま届けるために誕生した
明治時代、洋食中心の役人がうなぎ屋にうな丼の出前を注文した
しかし店主が役人の家に配達したころには、うな丼が冷めてしまう
正月などに使われていた重箱にご飯を詰めて うな重を作り、
当時、ご飯を五右衛門風呂の上で保温していた方法を応用し、
お湯を入れた重箱を挟んで配達し、冷めないように工夫した
 
温かいまま届けるために生まれたうな重だったが、
見た目がうな丼より高級感があり、庶民の間でも人気となり、
店主は、うな丼とは別にうな重も店で提供し始めた
お重にうな丼の蒲焼きをそのまま乗せるとうなぎが小さいため、
お重に合わせてうなぎの量を増やして、値段を上げた

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日本には、100種類以上の桜が存在しているのに、
桜の名所は、ほとんどがソメイヨシノばかり
●日本の桜は、ソメイヨシノばかりなのか?
ソメイヨシノは、江戸の染井村(東京都豊島区駒込地域)が発祥の地
 
江戸時代は、現在より桜の品種改良が盛んだった
参勤交代で自国に変えられない大名が、自国の桜を江戸に持ってきた
そのため江戸には、数多くの桜の品種が集まった
 
染井村は、植木職人の村
その中で腕利きとして名を馳せていた植木師 伊藤伊兵衛が、
エドヒガンとオオシマザクラをかけ合わせて、ソメイヨシノを作りあげた
江戸時代に一般的だったヤマザクラは、葉が出た後に花が咲く
先に花が咲くエドヒガンと花が大きいオオシマザクラをかけあわせ、
大きな花が葉より先に咲くソメイヨシノを作った
 
●ソメイヨシノは、圧倒的に成長が早いから
他の品種が花盛りまで15年かかるところ、ソメイヨシノは10年
この圧倒的な成長の早さが理由で、戦後、焼け野原になった日本を
満開の花で元気にする復興のシンボルとして各地に植えられたから

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●元々 大阪は大坂だった
現在の大阪府のあたりが、
オオサカと呼ばれるようになったのは室町時代後期
当時の摂津に、浄土真宗の僧侶 蓮如が寺を建てた
近くに大きな坂がある寺だったので、
寺を意味する御坊をつけて、大坂御坊と名付けられた
 
その後、安土桃山時代になると天下統一した豊臣秀吉が、
大坂御坊の跡地に城を建てた
それが大阪城
現在は、コザトヘンの大阪城だが、江戸時代までは大坂城だった
そして次第に大坂城周辺の地域のことを大坂と表記するようになった
 
江戸時代後期になると、ツチヘンの大坂が縁起が悪いと
コザトヘンの大阪に変えていくようになった
坂を分解すると土反→土にかえる、と言い、
武士が、死を連想させると縁起が悪いとした
坂と同じ意味を持つ阪に変える風潮となり、
明治時代になると正式に大阪の阪がコザトヘンになった

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●陶器の底を欠けるようになったワケ
陶器の底が、欠けている部分を切り欠きという
そのルーツは、萩焼にある
江戸時代初期、長州藩の藩主:毛利輝元は、
萩焼を気に入り、全ての萩焼を献上品として作らせた
その結果、萩焼は、庶民の手に渡らなくなった
困り果てた職人は、わざと底に傷をつけて献上品にできなくすることで
庶民の手にも萩焼が手に渡るようになった
 
献上品として萩焼は有名となり、切り欠きのある萩焼が庶民に出回り、
切り欠きがあることが素晴らしい陶器の目印となり、
萩焼以外の職人も切り欠きを真似て、
様々な焼き物に切り欠きをつけるようになった

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●魚屋が威勢よく売るワケ
魚屋が威勢よく売るのは、すでに江戸時代に定着していた
当時は冷蔵技術は発展しておらず、獲った魚は、
腐ってしまうのでその日のうちに売り切らなければいけない
道行く人の足を止めるために威勢よく売っていた
その名残で現代でも威勢の良い掛け声で売っている
●肉屋が静かに売るワケ
日本では江戸時代まで牛馬犬猿鳥の肉を食べるのを禁止されていた
どうしても肉を食べたい庶民のために
肉は店頭にはおかず、店の裏で取引されていた
そのため大きな声を出さず静かに売っていたため、
その名残で現代でも静かに売っていると言われている

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●バッテラは元々サバではなくコノシロを使った寿司だった
江戸時代にサバ寿司が誕生して100年以上経った明治24年
そのきっかけが、大阪湾で大量に獲れたコノシロ
コノシロとは、コハダが大きく育った出世魚
コノシロが大量に獲れ過ぎてしまい困った漁師は、
寿司常という寿司屋に買ってもらえないか、頼んだ
寿司常の店主は、酢でしめたコノシロの上に酢飯をのせ、
布巾で一つ一つ巻いて形を整え、コノシロの姿寿司を作った
この寿司が美味しいと評判となり、注文が殺到
一つ一つ巻いていると時間がかかってしまう
悩んだ店主は、コノシロの形に合わせた木型を作り、
コノシロと酢飯を入れて上から押して作ることを思いつく
 
●バッテラは、ポルトガル語
バッテーラは、ポルトガル語で小舟という意味
コノシロ寿司は、小舟のような形をしていたことから
バッテーラと呼ばれ、その後バッテラと呼ばれるようになった
 
バッテラを販売して、すぐにコノシロが獲れなくなり、
値段が上がったためサバで代用するようになった

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和食は大抵、箸を使って食べるのが当たり前
しかし寿司は、手づかみで食べるのが、ツウと言われている
 
●寿司を手づかみで食べるようになったワケ
江戸時代、屋台寿司が大流行
当時の寿司は、おにぎりくらい大きかった
そのため箸で持ちづらく、手づかみで食べざる得なかった
その手づかみで食べる習慣が、現代にも残ったという
 
当時の江戸は、建設ラッシュで全国から労働者が集まっていた
ゆっくり昼食をとってられず、サクッと食べられる寿司が人気に
彼らに来てもらうために寿司は、大きくなった
大きい寿司は人気となり、女性や子供も食べるように
その時にどうしても食べづらいということで、
大きい寿司を半分に切って出すようになった
現在、2貫ずつ提供される寿司は、この名残り
 
●江戸時代の酢飯
現在の寿司には、透明な米酢が使われているが、
江戸時代では酒粕からできた茶褐色の粕酢を使用していた

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●料理を届けてくれるサービス 出前と宅配の違い
出前という言葉が誕生したのは、江戸時代中期
安くて手軽に食べられるそばが、流行していた
しかし遊郭 吉原で働いていた遊女たちは、
吉原から出られないため店に行けない
人気のそばをどうしても食べたかった遊女たちは、
店の使用人に、そばを届けてもらうようお願いした
こうして出来立ての料理を店以外の場所に届けるサービスが生まれ、
次第に利用する人が増え、出前という言葉が誕生した
出前の出は、店から作った料理が出る、の出
前は、1人前、2人前の分量を表している
 
その後、出前のサービスは、そば屋だけでなく
寿司屋やうなぎ屋などでも行われるようになった
 
出来立ての料理を店から配達することに
初めて宅配という言葉を使ったのは、ピザ業界
日本で宅配ピザが誕生したのは、1985年
アメリカで流行していたピザを客のもとへ
届けるデリバリーのスタイルを日本に持ち込んだ
デリバリーピザは、店内で食べられずピザを届けるだけ
つまり配達専門店
 
出前する店は、店で料理を提供するのがメインで、配達はサービス
デリバリーピザは、配達するのがメイン
出前を行う店と差別化するために出前という言葉を使わなかった
当時、客のもとに荷物を運ぶ配送業者が
使っていた宅配便という言葉をピザを運ぶサービスの名前として使ったと言われている

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